アッサンダンの戦い
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| アッサンダンの戦い Battle of Assandun | |||||||
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| クヌート大王によるイングランド侵攻中 | |||||||
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| 交戦勢力 | |||||||
| イングランド王国 | デンマーク王国 | ||||||
| 指揮官 | |||||||
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エドマンド剛勇王 ウルフキテル † |
クヌート大王 のっぽのトルケル エイリーク・ハーコナルソン | ||||||
| 戦力 | |||||||
| 不明 | 不明 | ||||||
| 被害者数 | |||||||
| 甚大 | 軽微 | ||||||

アッサンダンの戦い(アッシェンドンの戦いとも)[1]とは、1016年10月18日、デーン人とイングランド人の軍勢との間で発生した会戦である。アッサンダンの所在地については、イングランド東部エセックス北部のサフラン・ウォルデン近郊のアシュドンとする説と、長らく有力視されてきた同郡南東部のローチフォード近郊のアッシェンドンとする説があり、議論が続いている。戦いは、エドマンド剛勇王率いるイングランド軍に対し、クヌート大王率いるデーン軍が勝利を収める結果となった。この後、クヌートとエドマンドの間でイングランドを分割する条約が結ばれたが、直後にエドマンドが没したため、合意に基づきクヌートがイングランドを治める唯一の王となった。
合戦
10月18日、デーン軍が自らの船へと引き返す際、両軍はアッサンダンと呼ばれる地にて激突。エドマンドは兵を三列に配し、自ら最前線に立って将兵を鼓舞した一方、戦士というよりは戦略家であったクヌートは陣列の中には加わらなかった[4]。戦いの最中、マーシア太守であるエアドリク・ストリオナが戦場を離脱。これによりスカンディナヴィア勢がイングランド軍の陣列を突破し、決定的な勝利を掴むこととなった[5]。11世紀に編纂されたクヌート大王妃エマの賛辞書『エンコミウム・エンマエ・レギナエ』によれば、エアドリク太守は開戦前に「いざ逃れん、目前の死を避け、命を守るのだ。さもなくば我らは今この時、ことごとく討ち死にせん。デーン人の猛威は、予が熟知しておれば」と言って部下を逃亡させた。しかし同書は、これがエアドリクによる欺瞞であることも示唆している。「後にある者たちが述べたところによれば、彼は恐怖からではなく、策略としてこれを行った。多くの者が断言するように、彼は何らかの恩賞と引き換えに、密かにデーン人と約束を交わしていたのである」。軍の少なからぬ部分が戦場を去るのを目の当たりにしても、エドマンドは怯まなかった。彼は、臆病にも見捨てていった者たちがいなくなった方がかえって好都合であると戦士たちに告げ、敵の真っ只中へと突き進み、四方のデーン人を斬り伏せた。エアドリク太守はかつてクヌートの上陸時に彼に寝返っていたが、クヌートがオットフォードでの戦いでイングランド軍に敗北した後にイングランド側に戻っていた。しかし、これは罠であり、彼はアッサンダンにて再びイングランドを裏切ったのである[5]。
合戦の最中、ドーチェスター・オン・テムズの司教若エアドノスが、エドマンド剛勇王の軍勢のためにミサを執り行っている最中にクヌートの兵によって殺害された。12世紀に編纂されたイングランドの歴史書『リーベル・エリアンシス(イーリーの書)』によると、エドノスの手はまず指輪を奪うために切り落とされ、次いでその体は切り刻まれたという[6]。また、有力な従士であったウルフキテルもこの戦いで命を落とした。
戦後
戦場の所在地
戦場については、もう一つの有力な候補地が存在する。同じくエセックスにあるアシュドン、あるいは近隣のハドストック付近である。この一帯からはローマ時代やアングロ・サクソン時代の硬貨が多数発見されており、1860年代にハドストックとリントンの間にある「レッド・フィールド」を貫く鉄道支線が建設された際には、膨大な数の人骨が発見された。歴史学者たちは長年にわたり候補地について議論を重ねてきたが、決着はついていない。アシュドンにある10世紀の木造教会は、キリスト教以前の神殿跡に建てられた可能性があり、11世紀初頭——すなわちクヌートの征服と同時期——に石造りで再建されたと考えられている。しかし、13世紀後半から15世紀初頭に現在のオール・セインツ教会が建立された際、初期の構造は大部分が消失した。一方、クヌートが建立した教会の有力な候補として、ハドストックの聖ボトルフ教会が挙げられる。この教会は11世紀初頭に遡ることが判明しており、現存する遺構も多く、もう一方の戦場候補地により近いのである[9][10]。