ウ・タント葬儀弾圧事件

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ヤンゴンのカンドーミン庭園霊廟にあるウ・タントの霊廟。

ウ・タント葬儀弾圧事件(ウ・タントそうぎだんあつじけん、ビルマ語: ဦးသန့် အရေးအခင်း)は、1974年11月25日に第3代国連事務総長ウ・タントが死去したことをきっかけに、ヤンゴンで起きた一連の抗議活動と暴動のことである。

ネ・ウィンとウ・タントの確執

1974年11月25日、第3代国際連合事務総長だったウ・タントはニューヨークで肺癌により死去した[1]。ウ・タントは当時もっとも有名なミャンマー人で、国内外で大変尊敬されていたが、時のミャンマーの最高権力者ネ・ウィンとは折り合いが悪かった。もともとウ・タントは、1962年ビルマクーデターでネ・ウィンが放逐したウー・ヌの下で、情報大臣や秘書官を務めた人物だったが、1969年、議会制民主主義党を結成して反乱を企図していたウー・ヌが、ニューヨークの国連本部ビル内で記者会見を開いたことに、ネ・ウィンは激昂。当時、ウ・タントはアフリカにいて不在で、後でウー・ヌに電話をかけ、彼の行動は不適切だったと伝え、ウー・ヌは謝罪したが、ネ・ウィンは2人が共謀していると確信したとされる。1971年にウ・タントが訪緬した際、ネ・ウィンはウ・タントとの面会を拒否し、ウ・タントはパスポートの更新にも苦労したのだという[2]。ただし、ミャンマー学者ロバート・テイラーは、この点について、「時間が経過していたため、今は亡きウ・タントの元仲間に対するネ・ウィンの怒りは和らいでいた」と主張している[3]

当時の政治・経済状況

事件が起きた1974年は、1月3日に新憲法を制定し、1月から2月にかけて人民議会選挙を実施、12年前にクーデターを起こした3月2日に人民議会を初招集した年だった。選挙に参加した政党はビルマ社会主義計画党(BSPP)だけで、ネ・ウィンが引き続きBSPP議長と大統領を兼任していたので、実態はさほど変わらなかったが、それでも曲りなりにも民政移管が実現し、国名も「ビルマ連邦社会主義共和国」に改名された。しかし、ミャンマー軍(国軍)が国政から形式的にせよ手を引いたことで行政に停滞が生じ、軍人と党人との間の内紛が激しくなり、世間の緊張が若干緩んだという副作用が生じた。また経済状態も悪く、1964年から1974年までの平均経済成長率はわずか2.1%。さらに1970年代に入って米生産が振るわなくなり、1973年には石油ショックの影響で米価格が高騰、庶民は配給価格の3倍以上の価格の闇米に頼らざるをえなくなり、失業問題も深刻化した[4]。1974年3月から6月にかけては、国営企業労働者と学生が提携して、米の増配と賃金引き上げを求めるストライキを全国で実施したが、ヤンゴンでは治安部隊が出動してこれを弾圧、 22人が死亡、73人が負傷したが、そのうち13人は警察官だった。ネ・ウィン体制に対する不満は極限にまで高まっていた[5][6]

経緯

ウ・タント

棺の奪還

12月1日、国連本部に保管されていたウ・タントの棺が、ビルマ航空の航空機に乗せられてヤンゴン国際空港に到着した。しかし、空港には政府高官の姿はなく、駐緬オーストラリア大使とアジア太平洋経済社会委員会(ESCAP)を退任したウー・ニュだけで[注釈 1]、棺を運ぶために用意されたのは、地元の赤十字社から借りたフォルクスワーゲンのバンだった[7]。この点、棺と一緒に初訪緬したウ・タントの孫タンミンウーは、「ウ・タントが死去した際に特別な栄誉を受けるなどという考えは、この老将軍(ネ・ウィン)の頭には浮かばなかっただろう」と否定的な評価をしているが、ロバート・テイラーは「ウ・タントの葬儀について特別な手配をするよう求められておらず、家族と国連が必要な手配を行うものとされていた…ネ・ウィンは葬儀の手配に何ら関与していなかった」と主張している[3]

棺がチャイカサン競馬場跡地まで運ばれる間、沿道には多くの人々が並んで、ウ・タントの死を悼み、競馬場跡地でも何千人もの人々が棺の到着を待っていた。棺は競馬場の真ん中に特設されたテントの下に安置され、4日間、一般弔問を受けつける予定だった[7]

12月2日、アウンティン教育副大臣が、葬儀当日に敬意を表してすべての学校・大学を休校にするよう閣議に提案したため解任されたという噂が広まる。チャイカサン競馬場跡地には一般弔問客が次々と訪れ、棺の前に花を供えていった。ネ・ウィンからの献花はなかったが、アウンティンは「元教育副大臣」として献花を送った。また、「17人の匿名の公務員」からの献花が人目を引いたのだという[7]

12月3日、ヤンゴン在住の各国大使が、チャイカサン競馬場跡地で国連が催した非公式式典に参列。同日、学生リーダーたちが集まって会合を開いた。ネ・ウィン治世下では、1964年に制定された国民連帯法(National Solidarity Act)により、BSPP以外の政党・政治組織の設立は禁止されていたが、学生、教師、弁護士、作家、僧侶、労働者などさまざな社会的背景を持った人々が、非公式の討論グループを秘密裏に結成し、政治、歴史、社会に関する書籍・記事を輪読し、討論会や意見交換を行っていた。そして、これらのグループの中には、ビルマ共産党(CPB)や右翼政治指導者と繋がりを持ち、その指示に従って活動している者もいた[8]

学生たちは、ウ・タントの遺体が質素なチャンドー墓地に埋葬されることを知り、憤慨[注釈 2]。密かにウ・タントの家族に遺体を持ち去る許可を得たとされるが、当時ミャンマーに帰国していたウ・タントの義理の息子ティンミンウー(Tyn Myint-U)は、「(競馬場にいた時に)2人の若い男性が私に近づいてきて、よく聞き取れない言葉で何か言ったが、私が素性を尋ねる前にあっというまに人混みの中に姿を消した…学生たちがウ・タントの遺体を奪い、より立派な場所に埋葬しようとしているという噂があった」と述べており、許可など出していないことを示唆している[9]。また、学生たちは、葬儀が予定されていた5日にチャイカサン競馬場跡地までデモ行進する決定を下した[7]

12月5日、ヤンゴン工科大学(RIT)の工学部と建築学部の学生たちによるデモ行進が、インセイン通りから始まる。途中、ヤンゴン芸術科学大学(RASU)、ヤンゴン医科大学、そして教育大学の学生たちが合流、また、多くの僧侶も参加した。道行く人々は歓声を上げ、食べ物や飲み物を差し入れし、寄付をする者までいた。午後3時頃、デモ隊がチャイカサン競馬場跡地に到着した時には、その数は約3,000人にまで膨れ上がっていた。葬儀には約5万人もの人々が集まっており、ウ・タントの弟ウ・カント(U Khant)は予定通り葬儀を行わせてくれるように懇願したのにもかかわらず、学生と僧侶たちは棺を奪い、ピックアップトラックを改造した即席の霊柩車の荷台の上に乗せた。霊柩車の両端には黄金の傘が取り付けられ、荷台には献花が積まれ、棺の上にはココナッツとバナナが盛られた皿が置かれていた。学生たちは拡声器を使って「私たちは敬意を表し、愛するウ・タント、平和の建築家の最後の旅に同行する」と主張した。そして、霊柩車の後ろに3列の長蛇の列を作って、詠唱しながら棺をヤンゴン大学にまで運び、午前6時頃、キャンパスに到着。キャンパスには数千人の学生が集まっており、棺は大学の集会所に設けられた仮設の壇上に安置され、一般弔問客がひっきりなしに訪れてきた。ティンミンウー、ウ・カント、そしてタントの娘アイアイは学生グループに、遺体の返還を求め続けたが、学生グループは複数に分裂していた[9][10]

交渉・抗議

12月6日、穏健派の学生グループが主導権を握り、ウ・タントの遺体をより相応しい場所に埋葬するように主張した。全国から僧侶がヤンゴンに集まり始めたので、当局は移動制限を課し、全国の学校・大学を閉鎖した[11]。ティンミンウーとタントのもう1人の弟ウ・タウンが学生グループと交渉し、政府と交渉するために明日代表者を市役所に派遣するように提案、学生たちは了承した。キャンパスは弔問客、寄付を募る人々、屋台まで出てお祭り騒ぎだったが、学生の演説はネ・ウィン打倒を求めるなど段々過激化していった[9]

12月7日、市役所において政府とティンミンウー、ウ・カント、そして学生代表3人との間で会談が持たれた。学生の主な要求は(1)ウ・タントの遺体をシュエダゴン・パゴダの麓にあり、コンバウン朝最後の王妃・スパラヤット英語版タキン・コウドオ・フマイン英語版の霊廟があるカンドーミン庭園霊廟英語版に埋葬すること、(2) 葬儀を国葬とすること、(3)デモ参加者に恩赦を与えることだったが、ティンミンウーが「ウ・タントは既に国連を退職しているので公葬で十分だ」と述べると、学生側は(2)の要求を取り下げ、政府側は(1)と(2)の要求に同意した[9]

ラングーン大学学生組合会館

一方、カンドーミン庭園霊廟への埋葬に反対するRITの学生グループは、1962年ラングーン大学抗議運動の際に爆破されたラングーン大学学生組合会館の跡地に、長さ約2メートル、高さ約1.8メートルのレンガ造りの霊廟を築いた。その背後には高さ約7.6メートルの竹製の衝立があり、ウ・タントの写真と国連の紋章が掲げられ、英語「ウ・タント国連事務総長」と書かれていた。霊廟の両脇には、色とりどりの仏教旗、国連旗、そして禁止されていたラングーン大学学生組合(RUSU)の半旗が3本掲げられた[11]

12月8日午後3時、葬儀が催された。しかし、葬儀が終わると、RITの学生グループは当局との約束を反故にして、ウ・タントの遺体を霊廟に埋葬した。学生たちは「勝利!勝利!」と連呼し、危険を察知したティンミンウーとウ・カントは、キャンパスから退避。事の次第を電話で当局に伝えると、「あとは政府が引き継ぐ」と告げられた[9][11]

その日から12月10日までの3日間、キャンパスは学生たちに占拠され、全国から抗議活動に参加する人々が集まってきたが、その中には僧侶も多く含まれていた。中央広場に設けられた演壇に次から次に演者が立ち、演説を行ったが、その内容はウ・タントの遺体の取り扱いを離れ、ネ・ウィン体制批判へと転じていった。この間、政府は部隊を空港近くに待機させ、病院、刑務所の職員も待機させた。また、国営ラジオ・国営新聞は、学生たちが約束を破り、遺族の意向を無視し、霊廟を築くためにキャンパス内にあった建材を不法に使用したと非難した。殺気立った雰囲気を察知して、キャンパス内の人数は大幅に減っていった[12]

弾圧

ウ・タントの霊廟の内部

12月11日早朝、国軍は大学を封鎖し、午前2時頃、まだ大半の抗議者が眠っていた時に約1,000人の兵士と15小隊の警察隊が、バリケードが築かれていた大学生門を大型クレーンで破壊してキャンパスに突入し、1時間以内に制圧した。キャンパス内にいた学生や僧侶たちはインセイン刑務所と軍諜報部の留置所へ送られ、霊廟はドリルで慎重に破壊され、回収されたウ・タントの棺はカンドーミン庭園霊廟に運ばれ、午前6時30分、ティンミンウー、ウ・カント、ウ・タウンら、睡眠中を叩き起こされた遺族と限られた関係者が参列する中で、埋葬された。ティンミンウーによれば、この際には死傷者は確認されていないのだという[9][13]

しかし、突入の際に国軍が僧侶を乱暴に扱ったという噂が広まり、午前8時30分、2つの警察署が襲撃されたのを皮切りに、1,000人以上の暴徒が市内のバス、車、電車、映画館、市場を破壊し始め、特に警察署、BSPP事務所、各公社の事務所が標的となった。午後4時、独立後初めてヤンゴン地方域内に戒厳令が敷かれ、戦車、装甲車、追加部隊が市内に進入。午後6時から午前6時まで外出禁止令が出され、5人以上のデモ、行進、集会が禁止され、空港、大学、学校、市場、一部の企業が閉鎖され、公共交通機関は停止された。また、騒乱に関与した者を裁く特別裁判所も設置された。国軍は群衆に容赦なく警告なしに発砲し、6時間以内に治安は回復された[14]

12月12日、小規模な暴動が発生したがすぐに鎮圧された。その後、国軍は騒乱に乗じて犯罪常習者、麻薬常用者、失業者などを一層、また闇市場も一層した。15日までに治安はほぼ回復し、21日までに完全に正常化した。その後、ヤンゴンでは兵士たちが長髪・ベルボトムといった欧米風の格好をした若者を呼び止め、無理やり髪を切られたり、ズボンを膝下まで切り落とされる事象が発生したが、これはヤンゴン地方司令部司令官の独断で行われたもので、数日間で中止となった[15]

犠牲者数

脚注

参考文献

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