1962年ラングーン大学抗議運動
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1962年ラングーン大学抗議運動(1962ねんラングーンだいがくこうぎうんどう、ビルマ語: ဆဲဗင်းဂျူလိုင် ကျောင်းသား အရေးတော်ပုံ)。7月7日学生蜂起とも呼ばれる。1962年7月7日、8日にラングーン大学(現ヤンゴン大学)起きた学生に対する弾圧事件で、伝統あるラングーン大学学生組合(RUSU)会館も爆破された。公式発表では死者は17人だが、100人以上に達するという説もある。
独立後の学生運動
ミャンマーでは、大学、特にラングーン大学は反植民地運動・独立運動の拠点・人材供給源だった。 独立の父アウンサン、ビルマ共産党(CPB)議長タキン・タントゥン、独立後の議会制民主主義時代の大半首相を務めたウー・ヌ、国連事務総長となったウ・タント、そしてネ・ウィンなど、独立闘争で活躍した人々、その後議会制民主主義時代に国軍将校、政府の大臣、野党政治家、反政府武装勢力のリーダーになった者のほとんどが、同時期にラングーン大学に在籍していた。ウ・タントの孫タンミンウーは、「ビルマの政治は1920年代、30年代に育った一握りの男性によって独占されていた...20世紀のビルマの歴史は、太平洋戦争前の暗黒時代に、友人同士であったり、少なくとも同時期に大学に通っていたりする男性グループ(そしてごく少数の女性)の歴史として語ることができる」と評している[1]。
独立後の1951年、全ビルマ学生連合(ABSU)、ラングーン大学学生連合(RUSU)、ラングーン地区学生連合(RDSU)が合併して、全ビルマ学生組合連合(ABFSU)が設立された[2]。組合員の学生は、反ファシスト人民自由連盟(AFPFL)、左翼統一ブロック・民族統一戦線(NUF)、ビルマ共産党(CPB)支持の三派に分かれており、学生自治においては各政党の代理人のように活動していた。比較的左派色が強く、後ニ者の派閥が優勢だった[3]。
各学生組合は比較的高度な自治権を有していたが、それでもときおり当局との間で衝突は起こり、1953年10月には1か月間の大学閉鎖を求める 学生ストライキが発生し、大学周辺で初めて銃声が響き渡り、29人の学生が投獄され、30人が退学、10人が1年間の退学処分を受けた[2]。1956年3月には、試験内容漏洩を理由に7年生の試験が中止されたことに抗議する学生ストライキが、警察によって解散させられた際に、中国系ミャンマー人であるハリー・タンが警察官に銃殺され、独立後最初の学生運動の犠牲者となった[4]。同年10月には、AFPFL政権が30日以内に学生自治会を廃止を発表したことに抗議する学生ストライキが起き、26人の学生が投獄され、256人のが退学となった[2]。ネ・ウィン選挙管理内閣下の1959年3月には、ラングーン大学法が改正され、政府代表、学長、会計、教授代表、RUSU代表2人から構成されていた大学評議会から、RUSU代表2人が排除されたことに抗議したABFSUの幹部が何人か逮捕され、政治犯収容所があったココ島に送られた[2][5]。
1962年クーデター以降の厳格な大学統制
1962年3月2日、当時国軍総司令官だったネ・ウィンはクーデターを決行、ウー・ヌ首相以下閣僚5人と司法長官、シャン・カレンニー系の政治家および指導者30人ほどを拘束した。クーデターによって成立したビルマ連邦革命評議会は、『ビルマ社会主義への道』を発表し、ビルマ社会主義計画党(BSPP)を結成して、一党独裁と国有化を特徴とする社会主義国家の建設を目指した。ただ、BSPPが本格始動するのは1971年からであり、それまでは革命評議会に実権があった[6]。
当初、各学生自治会はクーデターに抗議したが、NUFが革命評議会支持を表明したことを受け、3月6日までに、ABFSU、RUSU、RDSUのいずれもが革命評議会支持を表明した。しかし、ネ・ウィンは1958年12月2日のラングーン大学年次総会での演説で、「私がまず申し上げたいのは、学生全般、特に大学生の間に蔓延している不規律の問題です。なぜなら、現在の学生たちが、学校や大学の壁を越えて、その後の人生で成功するか失敗するかは、学校や大学に現在存在する規律、あるいは不規律の程度にかかっていると私は固く信じているからです」と述べるような人物だった[7]。
同年5月、お茶、昼食、夕食、入浴、電気の使用、外出の時間を制限する、これまでになく厳格な22項の寮規則が導入され、寮監と折り合いの悪かった学生たちが寮から追い出された[8][9]。5月9日、学生指導者4人がオランダ大使館前でデモを行ったために逮捕された。ネ・ウィンは、教員の不正行為と学生に対する政治的影響力の行使を理由に、大学評議会を廃止すべきだと訴えた。5月11日ラングーン大学学長ター・フラ、教授2人、大学寮寮長と寮長補佐が辞任。 1962年5月17日、大学評議会が改革され、軍人4人(そのうち1人はラングーン大学総長)がメンバーとなり、元教育大臣のウー・カー(U Kar)がラングーン大学新学長に任命された[2]。
経緯
7月5日深夜、ラングーン大学内は停電に見舞われ、苛立った学生たちは、本棚や机、ベッドを破壊し、地面に投げつけて燃やした。そして、たいまつを作って、抗議の意思を示すために大学構内をぐるぐると一晩中行進した。学生たちは午前3時に解散した[8]。
7月6日午前11時、学生集会が開かれ、RUSU議長バスエが、不当な寮規則に対する抗議集会を7月7日午後1時にRUSU会館で開催すると発表。集会は午前1時に終了[5]。

7月7日午後1時、RUSU会館で集会が開かれた。会場にはRUSU議長でもあったアウンサンの約1.8メートルの高さの写真が掲げられ、不当な寮規則改正について議論が交わされた。午後2時頃、集会は終了し、学生たちは赤い孔雀旗を掲げながらアディパディ通りをデモ行進し、シュプレヒコールを上げた。デモは午後3時に終了し、学生たちは解散した[10]。

その後もRUSUの幹部、その他の数人の学生はRUSU会館に残り、食事やお茶をしながら議論を続けていたが、そこにミャンマー軍(国軍)のジープとランドローバーが猛スピードで乗りつけてき、拳銃を持った警官隊が会館に突入、バスエらRUSU幹部、学生たちを逮捕した。逮捕を逃れた学生たちは「仲間が逮捕された!」と叫びながらキャンパス内を駆け抜け、数百人の学生たちがキャンパスに飛び出してきて、棍棒や投石で警察隊と格闘。警察隊も続々と援軍がやって来て、警棒や催涙弾で応酬した。多くの学生が警棒で殴られて倒れ、催涙ガスで体調を崩したが、逆に警察車両に放火し、数人の警察官を負傷させた。衝突は1時間半ほど続き、警察隊は撤退した[10]。
学生たちは一時の勝利の余韻に浸り、シュプレヒコールを上げながらキャンパス内を行進していたが、午後3時半頃、G-3ライフルを携えた数百人の兵士がユニバーシティ通りとキャンパス周辺の道路沿いに陣取った。指揮官はのちに8888民主化運動の際に大統領に就任し、苛烈な弾圧を行ったセインルインだった。その後1時間ほどデモ行進を続けた後、学生たちは兵士たちと交渉し、立ち去るように求めたが、兵士たちは上の命令がない限り動けないと答えた[10]。
午後5時頃、黒のフィアットが現れ、RUSU会館の近くにある大学郵便局の前に停車した。車の中から出てきたのはミンテイン准将で、彼はセインルインと将校たちに紙を一枚見せ、将校の1人がその紙に書かれていたことを読み上げた。すると突然、兵士たちは学生たちに発砲し始めたた[10]。現場にいた、ミャンマー初代大統領サオ・シュエタイッの息子で、シャン州軍(SSA)の理論的支柱でもあったサイ・ツァン(Chao Tzang)は、以下のように回想する[11]。
一体何事かと、私たちは顔を見合わせました。私たちの疑問は、銃弾によって即座に、そして暴力的に晴れました。私は溝の中に身を隠し、どうしたらいいのか分からず横たわっていました。一旦、銃撃は止みましたが、何人かの学生が走り出すと、再び銃撃が始まりました。その繰り返しでした。私自身も走って逃げている最中に、地面に横たわっていた遺体につまずいて倒れました。死んだ学生の手のひらの横には、学生会館の赤い旗が落ちていました。私は思わずその旗を掴み、命中しないようにと必死に祈りながら、全速力で走りました。ようやく安全な寮の建物に辿り着くと、兵士たちが建物に向けて発砲し始め、銃弾が壁にぶつかる音と、窓ガラスが割れる音が聞こえました。兵士たちが群衆を解散させるためだけではなく、殺すために撃てと命令されているのは明らかでした。
銃撃は10分ほどで止み、その後、軍のトラック3台がやって来て、負傷者と死者を運び出した。その後、夜間外出禁止令が出され、学生たちはキャンパスの外に出ないように命じられ、夜間に兵士たちが寮に押し入ってきて、さらに多くの学生を逮捕した[10]。
午後8時、革命評議会は国営ラジオでこの事件の首謀者は共産主義者の学生グループであり、死者は16人と発表した。この際、ネ・ウィンは、「剣には剣、槍には槍で戦う」で戦うと述べたが、この言葉は反体制活動家の間でのちのちまで語り草となった[10]。

7月8日午前5時、国軍はRUSU会館をダイナマイトで爆破した。負傷して建物の中で休んでいたミャウンミャという学生が一緒に死亡したという未確認情報もある[2][8]。
公式発表による死者数は16人だが、ラングーン総合病院に寄せられた情報によると、17人が死亡、69人が負傷し、68人がミンガラドン病院に搬送されたとのことである[9]。少なくとも70人が死亡したという情報もあるが、事実として事件前に学生数は1,489人だったのに対し、事件後は1,156人にまで減少した[12]。
大学は4か月後の11月に再開されたが、その際、RUSU会館跡地に1300年革命の際に亡くなったボー・アウンチョー記念碑とともに、7月7日に亡くなった100以上の学生を追悼するために、「百人以上の記念碑」(ビルマ語: ရာကျော်ကျောက်တိုင်)と名付けられた、高さ約2メートル、幅約1.6メートルの石碑が建てられた。しかし、まもなく「内戦の終結」と「国内の平和」を求める抗議集会が行われ、その際に石碑は再び破壊された[2]。
影響
当時大学生だったウー・ピョンチョーは、「当時、真に政治的に活動している学生はほとんどいませんでした。しかし、あの事件をきっかけに、学生たちは真剣に政治のことを考えるようになりました。それ以来、毎月詩集が出版され、毎年7月7日には(事件を偲ぶために)黒い服を着るようになりました。学生全員がそうだったとは言いませんが、かなりの数の学生がそうでした」と述べる[13]。
1964年に制定された国民連帯法(National Solidarity Act)により、BSPP以外の政党・政治組織の設立は禁止され、学生自治会も解散された。しかし、学生、教師、弁護士、作家、僧侶、労働者などさまざな社会的背景を持った人々が、非公式の討論グループを秘密裏に結成し、政治、歴史、社会に関する書籍・記事を輪読し、討論会や意見交換を行っていた。これらのグループの中には、ビルマ共産党(CPB)や右翼政治指導者と繋がりを持ち、その指示に従って活動している者もいた[14]。
また、ネ・ウィンは、のちに「大学生たちへの対応でミスを犯した。父親のように接したほうがよかった」と反省していたようだが[15]、1988年7月23日にBSPP議長を退任した際、RUSU会館を爆破したのはアウンジーだと述べた。アウンジーは否定している[16]。