YOSHIKIはX JAPANのアルバム『ART OF LIFE 』のレコーディングで、ジム・デヴィッド(ハル・デヴィッド の息子)が所有していたノースハリウッド ・NoHoアート地区の録音スタジオ「ワン・オン・ワン・レコーディング 」(One On One Recording) を借りて使用していたが、当時メタリカ やボン・ジョヴィ 、マドンナ などの有名アーティストに人気で予約が取りにくい上、スタジオ機材のレンタル料も嵩むことから、1993年にこのスタジオを購入した。その後、設備の充実化や内部の改築・改修工事を施し、スタジオAを引き続き外貸しのスタジオとして、スタジオBを自身のプライベート・スタジオとして使用していた[ 1] 。1997年には2階部分にビデオ編集専用ルームが作られた[ 2] 。
2000年にエクスタシー・レコーディング・スタジオ (Extasy Recording Studios) に改称[ 3] 。2003年からは一般へのレンタルを一切やめ、完全なプライベート・スタジオとして使用していた。[ 4]
スタジオA のコントロール・ルームにはメイン・モニタリング・スピーカー「ジェネレック ・1035B」と、アメリカ本土最大となる104インプットのミキシング・コンソール 「SSL ・9000J」が備えられ[ 5] [ 6] 、70人規模のオーケストラが収容できるトラッキング・ルームはドラム・レコーディングにも定評がある[ 7] 。
スタジオB には72インプットのミキシング・コンソール「SSL・Jシリーズ」を置き、ブースは主にボーカルのレコーディングに使用していた[ 7] 。
スタジオC にはDigidesign Pro Controlが置かれ、エディット作業に使用していた[ 7] 。
その他、ラウンジ、機材室、オフィスなどを備え、YOSHIKIが主宰するエクスタシー・レコード・インターナショナル (Extasy Records International) とエクスタシー音楽出版 (Extasy Music Publishing) も同じ建物に所在していた。
2012年に17ハーツLLC社に売却し、現在は17ハーツ・スタジオ という名のレンタル・スタジオになっている。
1998年には、マドンナのマネージャーを務めていたフレディー・デ・マンとレコーディング・ディレクターのビル・ドゥーリーが1993年にビバリー・ブールバードに構えたブルックリン・レコーディング・スタジオ (Brooklyn Recording Studios) を買い取り、エクスタシー・レコーディング・スタジオ・サウス (Extasy Recording Studios South) に改称して使用していたが[ 8] 、YOSHIKIがアメリカのバンドのプロデュース活動から手を引いた2003年に手放している[ 4] 。
このスタジオには80インプット、32モニターチャンネルへの拡張と、104本のフェーダーのGMLオートメーション化がなされたニーヴ のビンテージ・ミキシング・コンソール「ニーヴ・8078」が備えられていた[ 6] 。ここで商業用に貸し出していたスタジオではキッス やヴァン・ヘイレン 、ジェーンズ・アディクション などのほか[ 8] 、1999年にはトレイシー・チャップマン やフィオナ・アップル 、マリリン・マンソン といったアーティストがレコーディングに使用している[ 6] 。
11階にスタジオが所在していた恵比寿プライムスクエアタワー。
YOSHIKIは1999年8月27日に、メディアファクトリー との共同出資でメジャー・レーベル「エクスタシー・ジャパン 」を設立し、同レーベルやエクスタシーレコード の原盤制作の拠点となるスタジオとして2001年に「エクスタシー・レコーディング・スタジオズ・ジャパン 」を作った[ 9] 。エクスタシー・ジャパン、エクスタシーレコードなどと同居する形で、東京都渋谷区広尾の22階建てのタワー棟「恵比寿プライムスクエアタワー」11階オフィスを改造してスタジオ化した[ 9] 。スタジオ設立の推進役は当時ジャパンミュージックエージェンシーに所属していたエンジニア/プロデューサーの杉山勇司 [ 9] 。YOSHIKIが所有していたロサンゼルスのエクスタシー・レコーディング・スタジオのプリプロ・ルームをモデルに、設備に関してもYOSHIKIからの要望を多く取り入れた[ 9] 。スタジオの施工業者は日東紡音響エンジニアリング[ 10] 。
スタジオはA/Bの2つコントロール・ルームと、2つのレコーディング・ブースで構成[ 9] 。スタジオAのコントロール・ルームは、全チャンネルに1081モジュールを収めたNEVEの24inコンソールと、MTRにDIGIDESIGN Pro Tools | 24 Mix Plus (Mix Core×1、Mix Farm×5、DSP Farm×1)を中心にした構成[ 9] 。スピーカーにはYOSHIKIの指定したGENELEC 1038Aと、YAMAHA NS-10M Studio[ 9] 。基本構成をスタジオAと同じにしたスタジオBには、メイン・ユニットにFader Expansion Packを3台増設したDIGIDESIGN Pro Controlが据えられた[ 9] 。
このスタジオを使用して制作された最初の作品は、杉山勇司がプロデュースを手がけたフランジャーズの2001年のシングル「ライラック」であった[ 9] 。
2003年のエクスタシー・ジャパンの活動終了に伴い、スタジオも閉鎖された。