エスラー・デニング

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サー・エスラー・デニング
Sir Esler Dening
駐日大使
任期
1951年  1957年
君主エリザベス2世
首相ウィンストン・チャーチル
アンソニー・イーデン
前任者サー・アルバニー・ガスコイン英語版
後任者サー・ダニエル・ラッセルズ英語版
個人情報
生誕 (1897-04-21) 1897年4月21日
死没1977年1月29日(1977-01-29)(79歳没)
国籍イギリスの旗 イギリス

サーエスラー・メイバーリー・デニング: Sir Esler Maberley Dening GCMG OBE、1897年4月21日 – 1977年1月29日)は、イギリス外交官。1951年から1957年にかけて駐日大使を務めた。父は、日本で宣教師を務めたウォルター・デニング

駐日大使として

ウォルター・デニングの息子に生まれ、日本で生まれ育った[1]。1920年にイギリス領事部門の通訳生に採用され、以降は京城大連大阪神戸ハルビンといった各領事館職員として勤務した[2]

第二次世界大戦中、連合国軍東南アジア方面総司令部英語版で勤務し、1943年9月にルイス・マウントバッテン総司令官の政治顧問に就任した[3]

1951年、占領期間中の日本へ赴任することとなり、イギリス渉外事務所の政治代表に就いた[4]

1952年6月、サンフランシスコ講和条約発効により、デニングは駐日全権大使に昇格した[5]

昇格早々の6月末に、兵庫県神戸市イギリス海軍の水兵2名がタクシー強盗を働く事件が発生した(神戸イギリス水兵強盗事件[6]。イギリス側は「日本に裁判権なし」として水兵の引き渡しを求め、デニングも本国の方針にしたがって、地裁判決の翌日に外務省へ抗議を行った[注釈 1][9]

GATT加入問題をめぐって日英関係が緊迫

新宿御苑での園遊会に参加するデニング(中央正面を向いている人物、1952年)

デニングの大使在任中は、日本に対する戦時中の負の記憶が未だ払拭されていなかったうえ、経済復興をつづける日本がイギリス工業製品と貿易摩擦を生じていたため、イギリス世論の風当たりは強かった[10]

同時期に日本は、自由貿易の国際的枠組み(GATT協定)へ加入を目指していたが、貿易摩擦をかかえるイギリスがこれに待ったをかけた。イギリスを中心にフランスやオーストラリアが日本加入に異議を唱え、日本はGATTへオブザーバー参加を余儀なくされた[11]

デニングはこうしたイギリス本国の態度を批判し、「技術を改良し、生産性を向上させ、市場の流通をよくすることによってのみ、日本がしかける競争に対抗できるのであって、ある種の産業を日本の優勢から保護するために、日本の貿易に対して、関税を引き上げたり、制限を加えたりすることによって対抗できるものではない」と本国政府に訴えた[12]

しかし1954年に入ると、イギリスは日本加入に賛成しつつ、

1.二国間協定(緊急の場合は、日英間のGATT関係を停止できる内容)を個別に結ぶ
2.協定の第35条[注釈 2]を援用する

という二つの案を検討しはじめ、同年10月、1.の二国間協定案を日本政府に打診してきた。日本側は、「二国間協定を許せば、他国も同様に協定を求めてくる」と予想し、11月30日に協定案は受諾できないと回答した[11]

これに対して翌年の4月1日、デニングは「二国間協定案は拒否されたままとなっているところ、英国政府は35条の援用を近く議会で表明せざるを得ない。ただし他の締約国に対して日本の加入を邪魔することはない」と政府の意向を日本側に伝えた[11]

9日、イギリスは日本に対しGATT35条を援用し、日本とGATT上の関係を締結しない声明をだした[注釈 3][13][11]

こうした経緯を経て、日本は1955年3月にGATT加入を果たしたが、GATT35条による日本製品への実質的な輸入差別は続いた[11]

イギリス閣僚訪日問題 - 退任

GATT加入問題で日英間は緊迫化していたものの、とはいえ日本としては関係改善を求めて、重要閣僚の来日を望んでいた。デニングも雰囲気を察して、本国に要人訪日を求め、「日本が接近しても英国の反応は芳しくないだろうという警戒心のために、せっかくの日本の善意もゆがめられる」と本国政府に警告した[14]

しかし1956年秋に来日したのは、ランカスター公領担当大臣第10代セルカーク伯爵ジョージ・ダグラス=ハミルトン)で[注釈 4]鳩山一郎政権としては待たされた挙句、さして重要でない閣僚を歓待する羽目となり、日本側が「屈辱」と捉える不首尾に終わった[13]

この時期の日英間の不安定さはデニングの提出した年次報告書にも現れており、「(1956年は)思ったほどは関係が悪化しなかったが、来年よくなる見込みもない」という主旨の内容が綴られている[15]

翌年の1957年に大使を退任した。後任には、サー・ダニエル・ラッセルズ英語版が就任した。

1977年に死去した[16]

逸話

  • 大野勝巳外務事務次官(のち駐英大使)を毛嫌いしていた。大野の方も、後任のラッセルズ大使との会話でデニングの話をする際、デニングを指して「あなたの忌まわしい前任者」と呼んでいたという[17]

栄典

脚注

参考文献

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