エティエンヌ=フランソワ・テュルゴー
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父はパリ商人頭(パリ市長)を務めたミシェル=エティエンヌ・テュルゴー。弟に、フランス王国末期の財務総監として著名なアンヌ=ロベール=ジャック・テュルゴーがいる。
テュルゴーは若い頃に聖ヨハネ騎士団(マルタ騎士団)に参加した。聖ヨハネ騎士団員としては、地中海でガレー船団を率いたこともある[1]。1740年代のオーストリア継承戦争では、彼はモーリス・ド・サックスのもとでボヘミアやフランドルに転戦した[2]。1764年にフランスに帰国し、フランス軍の准将に任じられた。一方学者としては、1760年に農業アカデミーを設立し、1762年に科学アカデミーに加入した
1763年、ルイ15世によりギアナ総督に任じられた。実際にはこれはエティエンヌ・フランソワ・ド・ショワズール発案のギアナ征服遠征であった。しかし準備が不十分なうちに行われたこの遠征は失敗に終わった。さらに宮廷内の闘争の中で横領の罪に問われたテュルゴーは、その任を解かれた。
裁判では、彼自身には責任がないという判決が下りた。その後は研究に余生をささげ、1789年10月21日に父や弟たちと同じく痛風の発作に襲われ死去した。