ルイ15世 (フランス王)

18世紀のブルボン朝第4代フランス国王 From Wikipedia, the free encyclopedia

ルイ15世フランス語: Louis XV1710年2月15日 - 1774年5月10日)は、ブルボン朝第4代のフランス国王(在位:1715年9月1日 - 1774年5月10日)。ナバラ国王としてはルイス4世バスク語: Luis IV.a)。

ブルボン朝第一の美貌をうたわれ、癒しを求めて多くの愛妾を持った[1]ルイ15世は、その長い治世において、フランスの文化・芸術をヨーロッパ全土に浸透させ、啓蒙主義が台頭した時代を治めた[2]

概要

曾祖父ルイ14世の崩御によりわずか5歳で即位し、フルーリー枢機卿の死去により親政を開始した。戦争によって疲弊したフランスを受け就ぎ、政治的な関心も薄かったルイ15世だったが、その治世は先代との相対的な平和によっておおむね平穏なものとなり、有能な官僚たちとによる改革も進められた[3]

科学・書物・植物学などに情熱を注ぎ、トリアノン宮殿を植物学研究のため庭園に改造し最先端の科学機器を導入。地理学者や天文学者には、フランスの地図作成を命じた[2]

内気な性格の持ち主であり、公の場よりも信頼できる仲間との親密な空間を好んだ。宗教に関して敬虔な信者だったが、生涯を通して複数の愛人と関係を持ち続け、最愛王(Bien-Aimé)と呼ばれた。特にポンパドゥール夫人デュ・バリー夫人はルイ15世の治世に大きな影響を与えている。晩年になってショワズール公、次いで大法官モプー英語版を起用して改革を行い王権の強化を図るが、1774年に天然痘により64歳で崩御した。

この時代、啓蒙思想ヨーロッパ世界を席巻し、ヴォルテールシャルル・ド・モンテスキュージャン=ジャック・ルソーなどがフランスのサロンで活躍している。

生涯

誕生と家族の死

幼少期のルイ15世

曾祖父ルイ14世の治世時の1710年2月15日王太子ルイ(グラン・ドーファン)の嫡子ブルゴーニュ公ルイと妃マリー・アデライード・ド・サヴォワの3男としてヴェルサイユ宮殿で生まれた。誕生とともに彼は次男に慣習的に与えられる儀礼称号のアンジュー公、および国王の曾孫としてプチ=フィス・ド・フランスPetit-Fils de France)の称号を与えられた。

祖父の王太子ルイは唯一存命しているルイ14世の嫡出子であり、王太子妃マリー・アンヌ・ド・バヴィエールとの間にはブルゴーニュ公ルイ、アンジュー公フィリップ(後のスペイン王フェリペ5世)、ベリー公シャルルの3人の息子がいた。

ルイ15世の母マリー・アデライード・ド・サヴォワはサヴォイア公ヴィットーリオ・アメデーオ2世と公妃アンナ・マリーア(ルイ14世の弟オルレアン公フィリップ1世の娘)の長女である。ブルゴーニュ公とマリー・アデライードは1696年トリノ条約によって婚約し、1697年に結婚した。この時代の王族や貴族では非常に珍しいことに、ブルゴーニュ公夫妻は互いに愛し合い仲睦まじかった。

アンジュー公ルイの誕生によりブルボン家は、当時ヨーロッパで最多の3世代6人の直系王位継承権者がいることになり、王位継承は万全かと思われていた。1700年にアンジュー公フィリップはスペイン王位を継承し、フェリペ5世として即位した。このため、フランスとスペインの同君連合の実現を恐れたヨーロッパ諸国との間にスペイン継承戦争が勃発している。

1711年に1歳の時に祖父の王太子ルイが49歳で急死し、父のブルゴーニュ公が王太子となる(プチ・ドーファンと呼ばれた)。これは不幸な出来事だったが、ブルゴーニュ公はまだ若く、またブルターニュ公ルイとその弟アンジュー公ルイの2人の息子がいた。だが翌1712年2月12日に妃マリー・アデライードが天然痘(あるいは麻疹)で薨去すると、事態は劇的に変わる。病気の妻に長時間付き添っていたブルゴーニュ公も罹患し、6日後に薨去してしまう。更に、幼いブルターニュ公とアンジュー公の兄弟もこの病に罹患した。ブルターニュ公は瀉血治療が元で3月8日に薨去する。アンジュー公ルイのみが、養育係のヴァンタドゥール夫人が瀉血治療を拒否して死を免れた。こうして、一人残された幼いアンジュー公ルイがフランス王位継承権第1位となり、王太子(ドーファン)となる。ブルボン家の不幸は続き、1714年にアンジュー公の叔父ベリー公シャルルも狩猟中に事故死している。

幼くして家族を次々と失った王太子は深い悲しみに暮れた[4]

即位とオルレアン公の摂政

オルレアン公フィリップ2世

1715年9月1日、72年間王位にあったルイ14世が崩御し、わずか5歳のアンジュー公がルイ15世として即位する。本来なら幼いルイ15世の摂政を務めるのはルイ14世の甥のオルレアン公フィリップ2世であったが、ルイ14世は彼に不信感を持っていた。

ルイ14世はモンテスパン侯爵夫人との間に生まれたメーヌ公ルイ・オーギュストトゥールーズ伯ルイ・アレクサンドルに、自らの崩御後に幼君のため設置される摂政政府での重要な役割を与える遺言を同年8月に作成させている。彼らはルイ14世の後妻マントノン侯爵夫人(両人の養育係で王妃マリー・テレーズ・ドートリッシュの死後に秘密結婚をしている)の願いにより、嫡出子とされていた(他の多くの庶子たちはこの待遇を受けていない)。

遺言では摂政は置かず、ルイ15世が成人するまで14名からなる摂政諮問会議を設置し、合議によって国政運営に当たることになっていた。摂政諮問会議はオルレアン公が座長となるが、メーヌ公とトゥールーズ伯を含むルイ14世の側近たちが加わっており、必然的にオルレアン公の権力は制限されることになる。

しかし、オルレアン公は中世以来の帯剣貴族英語版noblesse d'épée)の支持を受けており、ルイ14世によって国政から排除されていた彼らは政策の変更を望んでいた。更に彼らは、メーヌ公とトゥールーズ伯を私生児と見なして忌み嫌ってもいた。これに加えて、ルイ14世によって建言権を奪われていたパリ高等法院、そしてイエズス会ローマ教皇重視政策の変更を望むジャンセニスト(厳格主義信仰運動)とガリカニリスト(フランス教会自立主義)もまたオルレアン公を支持していた。

幼いルイ15世は、戦争によって疲弊し社会的な緊張が高まる中で即位することになった。1715年8月、死を前にしたルイ14世はルイ15世に、「あなたの幸福のすべては、あなたが神に従い、あなたが心を配って国民に安堵をもたらすかどうかにかかっている。すなわち、あなたはできる限り戦争を避けるべきである。戦争は国民を破滅させる。私が示した悪い手本に従ってはならない。私はあまりにも軽薄に何度も戦争を行い、虚栄心から戦争を続けた。私の真似をしないで、平和を守る国王におなりなさい」と言い聞かせた[5]

死の床にあったルイ14世はオルレアン公と和解しようとしたのか、崩御の数日前の8月26日に廷臣や大臣たちに「オルレアン公に従え、彼が王国を統治する」と語っていた。ルイ14世が崩御した翌9月2日、パリ高等法院で大臣や王族、大貴族の会議が開かれた。その場でオルレアン公は崩御数日前のルイ14世の言葉を持ち出して、自分に全権を与えるよう要求する。パリ高等法院はオルレアン公を支持して摂政諮問会議のメンバー選別の決定権を与え、ルイ14世の遺言は事実上無効化されてしまった。こうしてオルレアン公が摂政としての実権を握った。オルレアン公は支持の見返りとして、パリ高等法院に建言権を返還している。その後、パリ高等法院はこの権限をもって、事あるごとに王権に抵抗するようになる。

10代のルイ15世、アレクシス・シモンベル作(1723年)

オルレアン公はパレ・ロワイヤルで執務を行い、幼いルイ15世は先王の遺言により、空気がよく健康に良いとの理由でヴァンセンヌ城へ移転させられた。だが、その4ヶ月後にはヴァンセンヌは冬が厳しいとの理由で、今度はパリ中心部のテュイルリー宮に移っている[6]

7歳になったルイ15世は、フランス王家の伝統に則って男性によって養育されることになり、ルイ15世は心から慕っていた養育係のヴァンタドール夫人と涙を流して別れた[7]。ルイ14世の遺言により新たな養育係となったのは、ヴィルロワ公フルーリー司教であった。ヴィルロワ公は宮廷作法を教えたが養育者としては凡庸な人物で、ルイ15世に良い影響を与えず、内気な性格を助長させただけだった[7]。一方、フルーリー司教は温雅な人物で教え子に優れた教育を施し、ルイ15世から敬愛される。

摂政となったオルレアン公は放蕩家として有名な人物だが、公私の分別はつけ、政治家としては有能だったという見方もある[8]。しかしこの時期、財政家ジョン・ローが提案した政策が実行された結果、破綻に瀕したローの事業を救うため大量の銀行券と株式が発行された結果、投資ブームが生まれ、このバブル経済がはじけフランスは大打撃を受けた。一方、売り逃げていた少数の投機家は利益を上げており、国も銀行券の価値を引き下げることで債務の償還に成功した(ミシシッピ計画[9]

1722年6月、パリにおけるオルレアン公の人気凋落を背景として、宮廷はヴェルサイユに移された。10月にはランスでルイ15世の成聖式が行われ、数日後には王が患部に触れることで病を治すという治癒儀式「ロイヤル・タッチ英語版)」が行われた。翌年、満13歳の誕生日を迎えたルイ15世は、成人宣言とともにみずからの統治を開始した[10]

1721年、ルイ15世は従妹のスペイン王女マリアナ・ビクトリアと婚約した。しかし、3歳のスペイン王女が成人するのを待っていては王統が途絶える危険があったため1725年3月に婚約が解消され、同年9月、元ポーランド国王スタニスワフ・レシチニスキの娘で21歳のマリー・レクザンスカとの結婚が決まった。ルイ15世は王妃マリー・レクザンスカを熱愛し、男子ふたりを含む10人の子供が誕生したため王党断絶の危機は回避された[10]

王妃マリー・レクザンスカ

フルーリー枢機卿の執政

フルーリー枢機卿イアサント・リゴー

宰相ブルボン公は失政続きで、穀物の価格が高騰し景気が悪くなり、国民の評判がひどく悪くなった。1726年、16歳になったルイ15世はブルボン公を罷免し、かつての養育係フルーリー枢機卿を事実上の宰相とした。彼が宰相としてルイ15世を支えた1726年から43年までは、対外戦争も少なく。行政制度が再編され、国の支出も減ったため税が軽減された[11]。この時期はルイ15世の治世下では最も平和で繁栄した時代であり、ルイ14世期の戦争による人的物質的損失からの「回復」の時代(gouvernement "réparateur")と呼ばれている。

フルーリー枢機卿は大蔵卿ミシェル・ロベール・ル・ペルティエ・デ・フォール(1726年 - 1730年)と後任のフィリベール・オリ英語版(1730年 - 1745年)の助けを受けて、1726年に貨幣を安定化させ、1736年には収支の均衡に成功した。また1738年にはサン・カンタン運河を開通させてオワーズ川ソンム川をつなぎ、後にスヘルデ川ネーデルラントにまで拡張している。国立土木学校が創立され、土木事業が進められて、フランス各地に近代的な道路が舗装された。海上交通も急成長して、フランスの貿易額は1716年から1748年までの間に8000万リーブルから3億800万リーブルに増加している。一方で、ルイ14世時代のコルベールによって定められた経済・社会機構統制(dirigisme)のために産業の発展は遅滞している。

『ルイ15世』イアサント・リゴー作、1730年(ヴェルサイユ宮殿蔵)

宗教面ではジャンセリストとガリカニリストの反抗を抑え込み、外交面ではフルーリーはイギリスとの同盟を継続させるとともにスペインとの和解に努めている。

1729年、王妃が3度目の出産で王太子ルイ・フェルディナンを生んだ。待望の王位継承者である男子の出産にフランス国民は喝采し、国王の人気は大いに高まった。この王太子の誕生により、王位継承問題とスペインとの戦争の危機を回避することができた。

1733年、外務卿ジェルマン・ルイ・ショーブラン英語版の勧めにより、ルイ15世はフルーリーの平和政策を一時放棄してポーランド継承戦争に介入する。この戦争は王妃の父スタニスワフ・レシチニスキを復位させることと、神聖ローマ皇帝カール6世の皇女マリア・テレジアの婚約者フランソワ・エティエンヌ(後の皇帝フランツ1世)からロレーヌ公国を奪うことが目的だった。

フランス軍はロレーヌを占領し、1738年ウィーン条約が結ばれて、スタニスワフにはポーランド王位放棄の代わりにロレーヌ公国が与えられ、フランソワはロレーヌの代償としてトスカーナ大公国の公位継承者となる。1766年にスタニスワフが死去すると、ロレーヌは義理の息子ルイ15世が相続してフランスに併合され、これがブルボン朝におけるフランス領土拡大の最後となった。その後、フランスがオーストリアオスマン帝国との調停を行ってベオグラード条約が締結された。条約はオスマン帝国に有利な内容で、これは16世紀以来のフランス・オスマン同盟の効果である。この結果、オスマン帝国はフランスのカピチュレーション(帝国内における外国人の恩恵的特権)を更新し、フランスは中東地域における貿易の優位を確保した。これらの成功により、ルイ15世の権威は大いに高まった。

私生活でルイ15世は、王妃マリー・レクザンスカと結婚から数年間は仲睦まじかったが、王妃はほぼ毎年妊娠させられると夫婦生活を厭うようになり始め、一方、ルイ15世も王妃が生んだ子の多くが女子だったことに落胆した。王妃は11人中2人しか男子を生まず、2人のうち王太子ルイ・フェルディナンだけが成人している。王妃がほぼ年中妊娠していたこともあって、ルイ15世は1734年頃から公的愛妾を持つようになり、ネール侯爵家の姉妹を寵愛した。最初にマイイ夫人、次に妹のヴァンティミーユ夫人そしてシャトール侯爵夫人である。

1739年以降、ルイ15世はロイヤル・タッチを止めてしまう。これは愛妾を多く持つルイ15世が自ら、神聖な儀式を行う資格がないと考えたためとされている[12][13]。だが、このことにより国王の神聖性の権威が損なわれる結果となった。

そして宿敵ハプスブルク家打倒のためオーストリア継承戦争に参戦せよと主張する延臣たちにルイ15世は抵抗できず90歳近いフルーリー枢機卿には参戦に反対する気力が残っていなかったため[14]、フランスは1741年プロイセン側で参戦した。戦時中の1743年にフルーリーが死去すると、ルイ15世は先王ルイ14世に倣い、以後宰相を置かないことを宣言する。

親政の開始とポンパドゥール夫人

『ルイ15世』モーリス・カンタン・ド・ラ・トゥール画、1748年

フルーリー枢機卿が死去して親政を開始した時点で、ルイ15世は33歳になっていた。彼は肖像画の通り美男子であり、体格も良く教養に富んでいたが、内気な性格であり、政治にはあまり関心を示していない[10][15][16][17][18]。フルリー死去に伴い親政を開始したルイ15世だが公務よりも趣味の狩猟に打ち込み、財務総監や国務卿に政策決定をゆだねることが多かった。ヴェルサイユでの生活に関しては、ルイ14世が自身のあらゆる行いを儀式化・可視化したのに対し、プライベートな空間で少数の親しい仲間と時を過ごすことを好んだ[19]

1744年、ルイ15世はオーストリア継承戦争で戦う軍隊の指揮を執るためアルザスに出征したが、この出征にシャトールー夫人が同行したことが世間の不評を買っていた。8月にルイ15世はメスで病に倒れ、重体に陥った。従軍聖職者は赦罪のために愛妾と別れることを求め、ルイ15世はこれに従って懺悔し、シャトールー侯爵夫人は追い返された。ルイ15世は回復し、国民は彼を「愛しの君」と呼んだ。しかしながら、ルイ15世の女性関係はすぐに元に戻ってしまった。この年の終わりにシャトールー侯爵夫人は死去し、国王は寵姫の死をひどく悲しんだ[20]

後にポンパドゥール夫人と呼ばれることになるジャンヌ=アントワネット・ポワソンは1745年2月に仮面舞踏会でルイ15世と出会った。知的で教養がある彼女は国王を魅了し、5月に彼女はポンパドゥール侯爵領を与えられ、正式にルイ15世の公妾となった。それまでの国王の愛人はみな貴族階層出身だったのに対し、彼女がブルジョワ階層出身であることが人々には不評で、彼女は様々な誹謗にさらされることになる。

ポンパドゥール夫人フランソワ・ブーシェ画、1750年

ポンパドゥール夫人はヴェルサイユ宮殿の3階に住まい、ここで国王は退屈で煩わしい宮廷儀礼から逃れて寛ぎ、ブルジョア風の生活を好んだ[21]

ポンパドゥール夫人は体を壊したため1750年以降は公妾を退き、国王とは友人として付き合った。性的関係はなくなったものの、彼女は国王から深く信頼され有力な助言者となった。ポンパドゥール夫人は政界にポンパドゥール派と呼ばれる派閥を形成し、「私が支配する時代」と自ら言うほどの権勢を持つことになる[22]。ポンパドゥール夫人の奢侈と浪費は当時の人々から非難されたが、彼女は芸術家のパトロンとなり、ルイ15世時代のフランス芸術の発展に無視しえない貢献をなしている。セーヴルに王立磁器製作所を設立してセーヴル焼を完成させたこと、パリに陸軍士官学校を設立させたのもポンパドゥール夫人の貢献である[23]。彼女は建築家のパトロンにもなり、パリ市内のルイ15世の屋敷(現在のコンコルド広場)やエコール・ミリテール英語版の建築をしたアンジュ=ジャック・ガブリエルに出資している。また、彼女は啓蒙思想を擁護して百科全書派を教会の攻撃から守り、百科全書の刊行を実現させた貢献もある。

一方で彼女は「鹿の園」(Parc-aux-Cerfs)と呼ばれる個人的な娼館をつくり、多数の若い女性たちに国王への性的奉仕をさせた。「鹿の園」の娼婦の一人マリー=ルイーズ・オミュルフィの裸体画が現代に残されている。この様な女性関係が元で、国王は処女の血の風呂に浴しているだの、90人の非嫡出子がいるだのといった淫らな噂がフランス中に流れてしまった。

オーストリア継承戦争ではフランスはプロイセン側に立ち、オーストリア、イギリスそしてオランダ共和国と戦った。1742年シャルル・ルイ・オーギュスト・フーケ・ド・ベル=イルがフランス軍を率いてバイエルン選帝侯カール・アルブレヒトを神聖ローマ皇帝カール7世及びボヘミア国王カレル・アルブレヒトとして擁立、1745年フォントノワの戦いではモーリス・ド・サックス率いるフランス軍がイギリス軍に大勝している。1748年までにフランス軍はオーストリア領ネーデルラント(現在のベルギーなど)を占領し、フランスの長年の念願だった国境をライン川にまで押し出すことに成功したかに見えた。

だが、1748年に結ばれたエクス・ラ・シャペル条約では元ロレーヌ公フランソワの神聖ローマ皇帝位を承認し(カール7世はオーストリアの反撃を受けてバイエルンを占領され、1745年に崩御)、ネーデルラントの占領地を返還するという、フランスに全く利益をもたらさない結果となった。このため、ルイ15世は国民から酷く不評を買うことになり、その人気は凋落した。

七年戦争の敗北と植民地の喪失

北米大陸の戦い(サント・フォワの戦い

戦争のために財政はひどく悪化しており、このため財務総監マチュー・ダルヌヴィル英語版は聖職者、貴族を含む全国民を対象とした「二十分の一税」の導入に取り組んだ。

1756年、フランスは七年戦争にオーストリア側で参戦した。伝統的にフランスはハプスブルク家と対決しており、この同盟は「外交革命」と呼ばれた。これにはプロイセン国王フリードリヒ2世を嫌うポンパドゥール夫人がオーストリアとの仲介役となった[24]

1757年1月5日、ルイ15世が馬車に乗ろうとした際に男に襲われ、右脇腹を短刀で刺される国王暗殺未遂事件が起こる。男はすぐに取り押さえられ、国王の傷も命に別条はなかったが、不安になった国王はしばらくひどく落ち込んでいる[25]。犯人はパリ高等法院の司法官の家に仕えるロベール=フランソワ・ダミアンで、主人から国王の悪評を聞き犯行に及んだと自白した。3月にダミアンは公開執行による八つ裂きの刑に処された。この事件の余波で、陸軍卿ダルジャンソン伯と海軍卿兼国璽尚書マチュー・ダルヌヴィルが罷免されている。ダルヌヴィルは「二十分の一税」を導入した有能な政治家だったが、ポンパドゥール夫人の不興を買って失脚したとされている[26]

七年戦争でオーストリア・フランス同盟軍は、名将フリードリヒ2世率いるプロイセン軍に苦戦し、1757年11月のロスバッハの戦いで大敗を喫してしまう。アメリカ新大陸の戦いでもフランス軍はイギリス軍に敗れ、ケベックモントリオールが陥落した(フレンチ・インディアン戦争)。

1763年2月、パリ条約が結ばれ、フランスはカナダルイジアナ西インド諸島の一部を含む広大な植民地を失った。この条約は「フランス史上最もみじめな条約」と呼ばれた[27]。翌1764年4月15日にこの戦争に少なからず関わったポンパドゥール夫人が死去した。ルイ15世はポンパドゥール夫人の葬列を涙を流して見送っている[28]

晩年

デュ・バリー夫人

この年までには国の債務残高は高額に達し、増税によって財務状況を改善する試みは特権階級の反対によって拒まれた。この特権階級の意思はパリ高等法院を代表する各地の法院によって表明されており、その上高等法院の官職を購入した者たちは罷免されることもなく、彼らによって登録されなければ法令が執行できなかった。ルイ15世が登録を強制するという断固とした手段を取ると、高等法院はこれに対抗できず弱体化している。この頃から、高等法院はいちだんと政府批判を強め、国王政府を弾劾することで王国の基本法を守護する機関として権威を回復した[29]

ルイ15世晩年の数年間は外務卿兼陸軍卿のショワズール公が政権を担った。彼はポンパドゥール夫人の人脈で出世した人物で、七年戦争では主戦派として戦争を推進していた。ショワズール公はイギリスへの報復のためにフランス海軍の再建に努め、その実績は多くの歴史家が評価している[30]。一方、国内問題ではイエズス会と対立したガリカニリストのパリ高等法院に同調して、イエズス会を解散させた。財政政策では穀物取引の自由化を行い、経済の自由化改革に着手したが、その効果には賛否が分かれる[31]

1765年、王太子ルイ・フェルディナンが薨御する。ルイ・フェルディナンの長男と次男は夭逝しており、三男のベリー公がドーファン(王太子)となった(後のルイ16世)。ショワズール公はオーストリアとの同盟関係を強化すべく、新王太子とマリア・テレジアの皇女マリー・アントワネットとの政略結婚を取りまとめ、婚儀は1770年5月に行われた。マリー・アントワネットの父方の祖母とルイ15世の母方の祖母はオルレアン公フィリップ1世の娘で異母姉妹であったので、マリー・アントワネットはルイ15世の又従妹であった。

1768年6月24日に王妃マリー・レクザンスカが薨去した。王妃が薨去する1カ月ほど前にルイ15世はジャンヌ・ベキュと出会っている[32]。ジャンヌは庶民の出で、娼婦同然の生活をしてデュ・バリー子爵の愛人となっていた女性だった。老境に入っていたルイ15世はジャンヌをヴェルサイユ宮殿に迎え入れて寵愛し、更にデュ・バリー子爵の弟と結婚させてデュ・バリー夫人と名乗らせ公妾とした(公妾は既婚者である慣わしがあった)。ショワズール公はデュ・バリー夫人を嫌悪し、そのために政治に関心がなかったデュ・バリー夫人は反ショワズール公の廷臣たちと結びつき、政争に巻き込まれるようになった[33]。パリ高等法院と国王との対立は続き、王権の危機を感じたルイ15世は1770年12月にパリ高等法院に迎合的なショワズール公を罷免した。だが、失脚したショワズール公派とパリ高等法院の法服貴族たちが、デュ・バリー夫人を元娼婦と非難する小冊子を作成して広め、これは国王の権威を貶めることになった[33]

『フランス国王ルイ15世』 フランソワ=ユベール・ドゥルエ (fr)、1773年(プティ・トリアノン宮殿蔵)

財政難に対しルイ15世は、1771年2月に大法官モプー英語版を登用してパリ高等法院を地方へ追放し、官職を買い法院の委員となった者たちを政府に従順な有給の官僚に代えるという決断を下した。さらに74年までには財務大臣アベ・テレ英語版による財務改革の着手によって、財政はほぼバランスを回復し、国家の信用も回復しつつあった[34]

1774年4月27日、ルイ15世は小トリアノン宮に滞在する間に片頭痛と足の痛みを感じ始めた。デュ・バリー夫人や孫のベリー公と朝食を共にしたが、ほとんど食べられなかった。食事後、狩りに出掛けるルイ15世は寒さを訴えて馬車に留まり、侍医の勧めでヴェルサイユに戻った。翌日より国王の顔に赤い斑点が現れ、症状が天然痘であることが判明すると、免疫力のないベリー公は国王と隔離された。病状が悪化して助からぬと悟った彼は、神への懺悔のためにデュ・バリー夫人を宮廷から立ち退かさせた。5月7日、国王は告解を行い罪の赦しを受ける儀式を執り行った。5月10日午後3時30分、ルイ15世は64歳で崩御した[35]

ルイ15世の崩御によって、進められていた改革も頓挫した。後をついだルイ16世は国民人気を失うことを恐れ、モプーの改革が功をなし始めた矢先に改革を撤回した。こうして王政はリーダーシップを失い、高等法院も立場を取り戻し、フランス革命へと繋がっていった[36]

妻子

ルイ・フェルディナン王太子

王妃マリー・レクザンスカとの間には以下の嫡出子がいる。

さらに見る 名前, 誕生日 ...
名前誕生日死亡日備考
ルイーズ・エリザベート1727年8月14日1759年12月6日パルマ公フィリッポと結婚。子供あり。
アンリエット1727年8月14日1752年2月10日未婚
マリー・ルイーズ1728年7月28日1733年2月19日夭逝
ルイ・フェルディナン1729年9月4日1765年12月20日王太子。ルイ16世ルイ18世シャルル10世の父。
フィリップ1730年8月30日1733年4月17日夭逝
アデライード1732年3月23日1800年2月27日未婚
ヴィクトワール1733年5月11日1799年6月7日未婚
ソフィー1734年7月17日1782年3月3日未婚
死産1735年3月28日1735年3月28日
テレーズ1736年5月16日1744年9月28日夭逝
ルイーズ・マリー1737年7月5日1787年12月23日修道女
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長女エリザベートと長男ルイ・フェルディナンは、それぞれスペインフェリペ5世の子女と結婚した(二重結婚)。ルイ15世の嫡出子で子孫を2020年現在まで残しているのはこの2人のみである。

愛妾と非嫡出子

シャトールー公爵夫人
ナルボンヌ侯爵夫人
  • 公妾:ルイズ・ジュリー・ド・マイイ=ネール(マイイ伯爵夫人、1710年 - 1751年)
  • 公妾:ポーリーヌ・フェリシテ・ド・マイイ=ネール(ヴァンティミール侯爵夫人、1712年 - 1741年)
    • 庶子:シャルル・ド・ヴァンティミール(1741年 - 1814年)
  • 公妾:マリー・アンヌ・ド・マイイ=ネール(シャトールー公爵夫人、1717年 - 1744年)
  • 公妾:ポンパドゥール夫人(ポンパドゥール侯爵夫人1721年 - 1764年)
  • 公妾:デュ・バリー夫人(デュ・バリー伯爵夫人1743年 - 1793年)
  • 愛妾:ディアヌ・アデライーデ・ド・マイイ=ネール英語版(ロラゲ公爵夫人、1713年 - 1760年)
  • 愛妾:マリー=ルイーズ・オミュルフィ(1737年 - 1815年)
    • 庶子:アガタ・ルイーズ・ド・サン=アントワーヌ・ド・サン=タンドレフランス語版(1754年 - 1774年)
  • 愛妾:フランソワーズ・ド・シャリュー英語版(ナルボンヌ侯爵夫人、1734年 - 1821年)
    • 庶子:ナルボンヌ公フィリップ(1750年 - 1834年)
    • 庶子:ルイ・マリー・ド・ナルボンヌ(1755年 - 1813年)
  • 愛妾:マルグリット・カトリーヌ・エノー英語版(1736年 - 1823年)
    • 庶子:アニエス・ルイーズ・ド・モントルイユ(1760年 - 1837年)
    • 庶子:アンヌ・ルイーズ・ド・ラレアーレ(1763年 - 1831年)
  • 愛妾:ルーシー・マドレーヌ・デスタン英語版(1743年 - 1826年)
    • 庶子:アニエス・リュシー・オーギュスト(1761年 - 1822年)
    • 庶子:アフロディト・リュシー・オーギュスト(1763年 - 1819年)
  • 愛妾:アンヌ・クーピエ・ド・ロマン英語版(マイイ=クロンジュ男爵夫人、1737年 - 1808年)
    • 庶子:ルイ・エメ・ド・ブルボン(1762年 - 1787年)
  • 愛妾:ルイーズ・ジャンヌ・ティエスラン・ド・ラ・コルテリエ英語版(ボンヌヴァル夫人、1746年 - 1779年)
    • 庶子:ブノワ・ルイ・ル・デュック(1764年 - 1837年)
  • 愛妾:イレーヌ・デュ・ビュイソン・ド・ロングプレ英語版(? - 1767年)
    • 庶子:ジュリー・フィユル(1751年 - 1822年)
  • 愛妾:カトリーヌ・エレオノーレ・ベナール英語版(1740年 - 1769年)
    • 庶子:アデライード・ド・サン=ジェルマン(1769年 - 1850年)
  • 愛妾:マリー・テレーズ・フランソワーズ・ボワスル英語版(1731年 - 1800年)
    • 庶子:シャルル・ルイ・カド・ド・ガシクール(1769年 - 1821年)
  • 愛妾:ショワズール・ボープレ伯爵夫人英語版 (1733年 - 1753年)

登場する作品

脚注

参考文献

外部リンク

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