エドモンド・レイトン
From Wikipedia, the free encyclopedia
私生活
ロンドンで父チャールズ・ブレア・レイトン(Charles Blair Leighton、1823年–1855年[2])と母キャロライン・ブーシー(旧姓 Caroline Boosey)[注釈 1]の間に生まれる。父も画家であったが、エドモンドが幼いうちに亡くなった[4]。
ユニバーシティ・カレッジ・スクール(University College School)で学ぶが、15歳で退学し茶商人のもとで働きながら、絵心を満たそうと絵画教室をめぐりサウス・ケンジントン学校の夜間コースで絵を習い始めると、やがて市内のヘザーズ美術学校へ進み、21歳で王立芸術院(ロイヤル・アカデミー・オブ・アーツ)に入学した[5][6]。
画家として依頼を受けた初期の作品には、詩集『Book of British Ballads』や雑誌『Cassell's Magazine』に載せるモノクロの挿絵があった[7]。
王立美術院の展覧会には26歳になる1878年から[疑問点]1920年まで油彩画の出展を重ねたが、晩節までロイヤル・アカデミーの準会員や会員に推されることは無かった。同展に初めて展示された作品は『A Flaw in the Title』(1872年)[8]と題して歴史を描き、200ポンドで売れた。レイトンはそれまでもっぱら描いたモノクロのイラストをやめ、油絵に専念する[7]。
1885年に結婚して一男一女が生まれ、息子のE・J・ブレア・レイトン Eric John Blair Leighton も画家となった[9]。娘のソフィー・ヘレン・ブレア=レイトン Sophie Helen Blair Leighton は家族と暮らしたロンドン市内のベドフォードパークやノーフォークのカービー・グリーン(英語版)の様子と父の画業について書き残しており、父がそれらの街を作品の背景に用いたと指摘する[10]。
代表作
- ペレアスとメリザンド(1892年)
- ハンガリー王女聖エルジェーベト(1895年)
- 安全祈願(1900年)[注釈 1]
- 休日(1900年)
- トリスタンとイゾルデ(1902年)
- アラン・シャルティエ(1903年)