エピナール
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| エピナール | |
|---|---|
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| 原語表記 | Épinard |
| 品種 | サラブレッド |
| 性別 | 牡 |
| 毛色 | 栗毛 |
| 生誕 | 1920年[1] |
| 死没 | 1942年頃 |
| 父 | Badajoz |
| 母 | Épine Blanche |
| 母の父 | Rock Sand |
| 生国 |
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| 生産者 | Pierre Wertheimer[1] |
| 馬主 | Pierre Wertheimer[1] |
| 調教師 | H. Eugene Leigh[1] |
| 競走成績 | |
| 生涯成績 | 20戦12勝[1] |
| 獲得賞金 | £1,285 & 376,975fr[2] |
エピナール(Épinard、1920年 - 1942年頃)は、フランスのサラブレッドの競走馬、種牡馬。フランス国内で無類の強さを誇ったのち、大西洋を渡ってアメリカ合衆国にも遠征した。馬名はフランス語でホウレンソウを意味する。
ヨーロッパ時代
エピナールは、フランスの実業家ピエール・ヴェルテメールが生産したサラブレッドの牡馬である。母エパインブランシュはアメリカで種付けを行われ、フランスに送られてからエピナールを産んでいる。
エピナールは2歳時にデビューし、ドーヴィル競馬場のヤコウレフ賞(芝1000メートル)でデビュー戦勝ちを収めた。このほかグランクリテリウム(ロンシャン・芝1600メートル)、フォレ賞(ロンシャン・芝1600メートル)、クリテリウム・ド・メゾンラフィット(メゾンラフィット・芝1500メートル)、コトー賞(シャンティイ・芝1000メートル)と2歳戦の主要競走を総なめにし、1922年の最優秀2歳牡馬に選出された[1]。
3歳時はイスパーン賞(ロンシャン・芝1850メートル)やグロシェーヌ賞(シャンティイ・芝1000メートル)で勝ち星を挙げている。その後エピナールはイギリスに渡り、グッドウッド競馬場でのスチュワードカップ(芝6ハロン)に出走、ここでファロスなどを含む強豪を破って優勝した。続いてケンブリッジシャーハンデキャップ(ニューマーケット・芝9ハロン)にも出走したが、ハンデキャップが重かったこともあって、勝ち馬ヴァーディクトのクビ差2着に敗れた。
その後4歳時にはサーギャラハッドとサンクルー競馬場でマッチレース(芝1300メートル)を行ったが、当日は脚の痛みを押しての出走で、短首差で敗れている[1][3]。
アメリカ遠征
1923年10月、エプソムダービー優勝馬であるパパイラスが大西洋を横断してアメリカに渡り、ケンタッキーダービー優勝馬であるゼヴを相手に史上初の英米ダービー馬同士によるマッチレースが開催された。この催しは興行的成功を収め、翌年再び海外馬をアメリカに招聘することが検討されていた。ここで白羽の矢が立ったのがエピナールで、アメリカ側の競馬関係者のオーガスト・ベルモント2世やジェームズ・シェブリン、マット・ウィンらとの交渉の後、ヴェルテメールはこれを承諾、「インターナショナルスペシャル」と銘打たれた3つの特別競走にエピナールを参加させた。
エピナールはキュナード・ラインの船で輸送され、ニューヨークの港に到着した。インターナショナルスペシャルはニューヨークのベルモントパーク競馬場とアケダクト競馬場、ケンタッキー州のラトニア競馬場で開催された。
エピナールにとって初のダートコースでの競馬であったが、それでもエピナールはインターナショナルスペシャルの3競走すべてで2着に入った。その後アメリカ国内でローレルステークスに出走、ここで5着に敗れたのを最後に引退した。勝利こそなかったものの、インターナショナルスペシャル3競走の健闘を称えられ、エピナールは同年のアメリカ最優秀古牡馬に選出された[1]。