ラングドックのルヴェル近くにあるラス・カーズ城に生まれる。ヴァンドームとパリの士官学校で学んだのち、海軍に入り、1781年から1782年にかけての軍事活動に従軍した。1789年にフランス革命が勃発すると亡命し、ドイツとイングランドで数年間を過ごし、イギリス側の壊滅的な敗北に終わった1795年のケベック遠征にも従った。この遠征から生還できたのは、わずかな人数であった。ロンドンに帰りついて後は、家庭教師の仕事につくまで貧窮のうちに生活した。
1801年、A・ルサージュ (A. Lesage) の筆名で英語版の地図帳を出版し、大きな成功を収めた。アミアンの和約(1802年)後、赦されてフランスに帰国すると、1803年から1804年にかけてフランス語版も刊行し、1850年代まで翻訳版やスピンオフ版、海賊版などさまざまなタイプが刊行された。
1802年のアミアンの和約で、エミグレ(亡命貴族)にも恩赦の道が開かれると、侯爵の世襲爵位を放棄したうえで、ナポレオン・ボナパルト側についた王党派とともにフランスへ帰国した。その後はナポレオンに侍従として仕えたが、特に目立つ存在ではなかった。1814年4月11日にナポレオンが皇帝から退位するとイングランドに移ったが、百日天下となるとナポレオンに仕えるため、再びフランスに戻った。
ラス・カーズに口述筆記をさせるナポレオン
百日天下が終わり、ナポレオンが再度退位すると、少数の忠実な支持者とともにロシュフォールへ、次いでセントヘレナまでナポレオンに随行した。セントヘレナでは私的だが非常に熱心に執事役を務め、ナポレオンとの会話を数多く書き留めた。これが形となって、のちに有名な『セントヘレナにおけるナポレオン回想録』となる。しかし自らの考えを差し挟んだり、ナポレオンの感情を脚色したりすることに躊躇しておらず、また事実誤認や文書の誤記も確認されているため、同じくナポレオンに随伴したガスパール・グルゴーの日誌に比べれば信頼性は劣るとされる。
セントヘレナではモントロンやグルゴーに疎まれ、十分な量の記録を書き留めてのちは島外に脱出する機会をうかがっていた。それとの関連は不明だが、1816年11月、イギリス側の規則に違反したとして総督ハドソン・ロウからセントヘレナを追放され、はじめ喜望峰に、ついでヨーロッパに送られた。しかし復古王政政府からフランス入国を拒否されたため、ブリュッセルに落ち着いた。ナポレオンが亡くなると入国の許可が下りたため帰国し、『回想録』を刊行して財をなした。
1842年、パリのパッシー地区で死去。パッシー墓地に埋葬された。