ラヴォール (タルヌ県)
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ラヴォール (Lavaur、オック語:La Vaur)は、フランス、オクシタニー地域圏、タルヌ県のコミューン。アルビ、トゥールーズ、カルカソンヌを結んだ三角形の中に位置するラヴォールは、ペイ・ド・コカニュ地方の丘陵、アグー川のほとりに位置している。人口およそ11,000人を持つ『ペイ・ド・コカニュ地方の主都』であり、ラヴォール都市部の中心である。
| Lavaur | |
|---|---|
![]() | |
| 行政 | |
| 国 |
|
| 地域圏 (Région) | オクシタニー地域圏 |
| 県 (département) |
タルヌ県 |
| 郡 (arrondissement) | カストル郡 |
| 小郡 (canton) | ラヴォール・コカニュ小郡 |
| INSEEコード | 81140 |
| 郵便番号 | 81500 |
| 市長(任期) |
ベルナール・カレヨン (2014年-2020年) |
| 自治体間連合 (fr) | fr:Communauté de communes Tarn et Agout |
| 人口動態 | |
| 人口 |
10,699人 (2015年) |
| 人口密度 | 170人/km2 |
| 住民の呼称 | Vauréens, Vauréennes |
| 地理 | |
| 座標 | 北緯43度41分59秒 東経1度49分11秒 |
| 標高 |
平均:141m 最低:105 m 最高:274m |
| 面積 | 62.83km2 |
| 公式サイト | |
地理
由来
ラヴォールはガリア語で『隠れた流れ』または『渓谷』を意味するvoberoから生じている。この語源は、オック語ではvaurとなり、この土地の地名学に対応する。
歴史
1025年、この小さな要塞の町がいくつかの文章で説明された。1035年にはヴォロの城(castro de vauro)として初めて記された。古いカストルムはこの古い城の北側に存在しなければならない。1065年、ラヴォールのソヴテ(fr、教会の周りをいくつかの石柱で区切った避難区域。教会の聖域と同じく、ソヴテに逃げ込んだ者には教会の庇護が与えられた)は、コンクのサント・フォワ修道院の修道士たちに授けられた。1098年、トゥールーズ司教イザルンがトミエールのサン・ポンス修道院の修道士たちに提供した小修道院の敷地内に、聖アラン教会が建設された。
1182年2月、トゥールーズ伯はベジエおよびカルカソンヌ子爵ロジェ・トランカヴェルの町ラヴォールを攻略した。トゥールーズ伯レーモン5世は、クレルヴォー大修道院長アンリ・ド・マルシヤックに助けを求めた。彼らは、ロジェ・トランカヴェルの妻アデライード(レーモン5世の娘である)の持参金であったラヴォールを包囲した。一度都市が奪われてしまえば、そこで暮らすカタリ派信徒たちは逃げなくてはならず、レーモン5世は町を保護し続けた。
1211年3月3日、一か月以上に及んだ攻城戦の後、アルビジョワ十字軍の指揮官シモン・ド・モンフォールによって町は占領された。町の城代であったギロード・ド・ロラック夫人は捕えられてリンチされ、大量の石とともに井戸に投げ込まれた。異端とみなされた80人の騎士たちが絞首刑に処され、400人のカタリ派信徒たちが火刑台で生きたまま焼かれた。1215年、ラヴォールで教会会議が開かれた。1220年にシモン・ド・モンフォールが死ぬと、町は未来のレーモン7世に引き継がれた。彼は町の守備隊基地を徹底的に破壊した。1220年代にはラヴォールにコンシュラ職が置かれた。1226年、フランス王ルイ8世はラングドック征伐のための遠征をおこない、その際ラヴォールで休息をとった。ロートレック子爵シカール6世の支援を受けたコルドリエ会の修道士たちは、ラヴォールの町の郊外に住み着いた。1229年、ルイ9世とレーモン7世との間でモー条約が結ばれ、カストルムにあった防衛施設の破壊が行われた。1255年5月15日、新設された聖アラン教会の建設に関する憲章が発行された。1271年、最後のトゥールーズ伯ジャンヌ・ド・トゥールーズの死により、トゥールーズ伯領の町はフランス王領となった。
1317年9月26日、ローマ教皇ヨハネス22世は、ラヴォール司教座を創設するための教書を公布した。その後司教座は都市の重要な発展をもたらした。ラヴォール司教の長い歴史の系図には、有名な高位聖職者の名が幾人か見つけられる。百年戦争中の1369年から1370年にかけ、都市住民たちはジョン・シャンドス率いるイングランド軍を撤退させた。
1439年、国内行幸中であったフランス王太子、未来のルイ11世がラヴォールを通過した。1462年か1468年、ルイ11世はラヴォールを伯領に格上げした。1483年、シャルル8世の時代に、ラヴォール伯領は王領に戻された。恐ろしい黒死病の流行が都市に壊滅的な被害を与えた。
15世紀最後の30年間、大聖堂と対比をなす第2の司教宮殿が建設された。1450年代から1600年代まで、ラヴォールでは染料の原料となるホソバタイセイ栽培が盛んだった。
1540年、ラングドック三部会がラヴォールで開催され、ガロンヌ川と地中海をつなぐ河川交通計画が議論された(将来ミディ運河となる)。
1562年、コルドリエ会の会士たちが、ユグノーによって殺害、殉教した。1589年、ラングドックのカトリック同盟三部会は、異端者を王と認めることは決してないとラヴォールで宣誓した。1593年、ラヴォールにペニタン・ブルー兄弟会が住み着き、1600年にはペニタン・ブラン兄弟会が定着した。
1612年、ラヴォールにカプチン会の修道院が設置された。1729年、ラヴォール病院の建設が始まった。18世紀半ば、王立製糸工場が設置され、病院建物では織物工場が稼働した。1773年から1791年にかけ、アグー川にエタ・デュ・ラングドック橋が架けられた。
1930年3月2日から3日にかけ、アグー川の千年に一度の規模という洪水が発生し、町が荒廃した[1]。
ツール・ド・フランス2011では、ラヴォールは第11ステージの到着都市となった。
史跡
人口統計
経済
産業
- ラボラトワール・ピエール・ファーブル社の研究開発センター
- アール・エ・キャラクテール社のアートプリント。1993年、2000年、2012年と、優秀な印刷業者に送られる全国大会の金賞を獲得。
- 農業及び農産物分野で活動するオクシタン協同組合
- 青果物の協同組合であるレ・ドゥー・ヴァレは、リンゴに特化して販売している
- ファブリ・アミフロール社は、様々な種類の肥料を製造、包装、販売している

