エマヌエーラ・ディ・ダンピエレ

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マドリードエル・パルド宮殿英語版で行われた長男カディス公の結婚式にて撮影、1972年3月8日

エマヌエーラ・ディ・ダンピエレEmanuela di Dampierre, 1913年11月8日 ローマ - 2012年5月3日 ローマ)は、フランス系イタリア人[1]の貴族女性。ローマに亡命したスペイン王室のセゴビア公ハイメ[2]の最初の妻となり、離婚後も教会法上の見地から、またハイメを名目上のフランス王と仰ぐレジティミストの見地から、正統な配偶者と見なされ続けた。

ローマの教皇領貴族中でも名門のルスポリ家英語版の末裔として、ローマ旧市街コルソ通り英語版に面するルスポリ宮殿英語版で誕生。母ヴィットーリア・ルスポリフランス語版は、同宮殿の主である初代ポッジョ・スアーザ公エマヌエーレ・ルスポリ英語版とその3番目の妻で米国人のジョセフィーン・ビアーズ=カーティス(1861年 - 1943年)の間の娘であり、フランス人の父ロジェ・ド・ダンピエール子爵(1892年 - 1975年)もまた、第2代サン・ロレンツォ・ヌオーヴォ公爵という教皇領貴族の称号を持っていた[3][4]

父の祖先はフランスに数多くあったダンピエールフランス語版の家名を名乗る貴族家門のうち、ピカルディーに起源を持ちノルマンディーダンピエール=サン=ニコラ英語版を領した14世紀発祥の家系であり、復古王政期の貴族院議員だったエマール・ド・ダンピエールフランス語版侯爵の孫の1人だった祖父リシャール・ド・ダンピエール子爵(1857年 - 1906年)が教皇庁によりサン・ロレンツォ・ヌオーヴォ公爵に叙爵された。従って、エマヌエーラの家系は中世のフランス王家とのつながりを有するブルボン=ダンピエール家英語版及びその祖家であるオーブ地方発祥のダンピエール家フランス語版とは関係がない。

フランスではエマニュエル・ド・ダンピエール(Emmanuelle de Dampierre)と名乗り[5]、正式な洗礼名はフランス語名のヴィクトワール・ジャンヌ・エマニュエル・ジョゼフィーヌ・ピエール・マリー(Victoire Jeanne Emmanuelle Joséphine Pierre Marie de Dampierre)といった。パリで育ち、1930年に両親が離婚すると母・弟・妹と共にローマの母の実家ルスポリ宮殿に移り、祖母やその姉のタレーラン侯爵夫人エリザベス英語版ら母方の家族と暮らした。父はその後2度結婚し、最後の妻はアルフレド・ドレフュスの姪孫にあたる女性だった。

1935年3月4日、ローマのサンティニャツィオ・ディ・ロヨラ・イン・カンポ・マルツィオ教会英語版において、スペイン王族のセゴビア公ハイメ王子と結婚した(スペイン王子ハイメとエマヌエーラ・ディ・ダンピエレの婚礼フランス語版[6]。2人の結婚は双方の両親が取り決めたものだった[7]1931年の共和革命で追放されたスペイン王アルフォンソ13世の次男だったハイメは、1933年聾唖の障害のためにスペイン王位継承権を放棄していた[8]。ハイメが慣習的な王族間の婚姻をせず非王族出身のエマヌエーラと結婚すれば、彼とその子孫がスペイン王統を継ぐ弟バルセロナ伯フアンとその子孫の王位継承権を脅かす可能性が低くなるため、スペイン王室には好都合であった。エマヌエーラにはスペイン王女(親王妃・王族妃)の身位は認められず、貴賤婚配偶者としてセゴビア公爵夫人の称号とグランデ特権の付与のみに留められた[9]

エマヌエーラはスペイン王族の(貴賤婚)配偶者として、スペイン王室からマリア・ルイサ王妃貴婦人勲章英語版及び王立セビーリャ騎士団英語版貴婦人勲章を授けられ、この他にマルタ騎士団法執行官級貴婦人勲章、イタリア赤十字社婦人勲章をも授与された。ハイメはスペイン王位継承権を失っていたものの[10]、父から譲られたフランスのレジティミスト王位請求者としての地位は保持していた[6][3]。そのためエマヌエーラはハイメとの結婚後、夫の支持者たちから名目上のフランス王妃たることを示す「マダム(Madame)」と称され、また夫と同じく自身の紋章にフランス王家の紋章を組み込んで使用した[1]

セゴビア公夫妻は間に2人の息子をもうけた:

2人の結婚生活はうまくいかず、1947年5月6日にブカレストで離婚届を提出した[6]。2人の法的な離婚は2年後の1949年6月3日にイタリア・トリノの裁判所で認められた。直後、ハイメはドイツ人オペラ歌手シャルロッテ・ティーデマン英語版インスブルックで、エマヌエーラはミラノ生まれの投資家アントーニオ・ソッツァーニとウィーンで、それぞれ再婚した[6]。しかしエマヌエーラは結局ソッツァーニとも1967年に離婚している[6]。ハイメとエマヌエーラの離婚成立はイタリア当局が認めたものの、カトリック教会の認めるところとならず、スペインとフランスの両政府もまた認めなかった[6][3]。このため、ボルボン家を(旧)王族として遇するスペイン・フランス、及び欧州諸国の大多数の宮廷や貴族社会においては、後妻ではなく前妻のエマヌエーラの方がハイメの正統な配偶者として扱われた[3]

1972年、長男カディス公アルフォンソとスペイン総統フランシスコ・フランコの最年長の孫カルメン・マルティネス=ボルディウとの結婚(アルフォンソ・デ・ボルボン・イ・ダンピエレとカルメン・マルティネス=ボルディウの婚礼フランス語版)は、すでに1969年にフランコの後継者・次期国王と宣されていたバルセロナ伯の長男スペイン公フアン・カルロスの王位継承権に対するセゴビア公一家の挑戦の試みと見なされ[11]、スペイン王室内の亀裂を深めた。スペイン王室に対する独裁者フランコの公私混同の介入は、フランコ体制支持派の間でも評判が悪く、フランコの威信を低下させる要因の1つとなった[12]

1980年代はエマヌエーラにとって試練が相次いだ。1984年2月7日、長男カディス公と2人の息子がスペインのナバラ州で自動車事故に遭い、最年長の孫のブルターニュ公フランシスコスペイン語版が亡くなった。5年後の1989年1月30日、今度は長男カディス公が米国コロラド州でスキー事故死し、その唯一の遺児でレジティミストのフランス王位の後継者である14歳の孫アンジュー公ルイス・アルフォンソの養育権をめぐり、長男の元妻カルメン(1982年離婚していた)と裁判で争わねばならなくなった。エマヌエーラはカルメンとの法廷闘争に勝ち、孫を引き取って育てた。

2000年には白血病を患っていた次男アキテーヌ公にも先立たれた。2003年、『追想:スペインに君臨したかもしれないボルボン家王子たちの妻・母として(Memorias: Esposa y madre de los Borbones que pudieron reinar en España)』と題した元夫ハイメや息子たちに関する回想録を出版した[3][13]。2012年、長く患ったのち98歳の高齢で死去[6]。遺骸はパリ・パッシー墓地の父方ダンピエール家の墓廟に安置された[3]

ギャラリー

引用・脚注

外部リンク

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