エリザベス・グールド
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エリザベス・グールド | |
|---|---|
| Elizabeth Gould | |
![]() | |
| 生誕 |
1804年7月18日 |
| 死没 |
1841年8月15日(享年37歳) |
| 国籍 |
|
| 別名 | エリザベス・コクセン(旧姓:Coxen) |
| 職業 | 博物画家、石版画家 |
| 配偶者 | ジョン・グールド(1829年婚) |
| 子供 | 8人(6人が幼少期を生き延びた) |
エリザベス・グールド(Elizabeth Gould、旧姓:コクセン、1804年7月18日 - 1841年8月15日)は、イギリスの博物画家・石版画家であり、19世紀の自然史運動の最前線に立った人物である。鳥類学者・著述家のジョン・グールドの妻として、鳥類図譜の制作に中心的役割を担い、生涯で650点以上の石版画・図版を制作した。チャールズ・ダーウィンの『ビーグル号航海記』(鳥類篇)の全図版を担当したことでも知られる。グールドフィンチ(Chloebia gouldiae)およびグールドのサンバード(Aethopyga gouldiae)は、彼女にちなんで命名されている。
生い立ち
エリザベス・コクセンは1804年7月18日、イングランドのラムズゲートに、軍人を輩出した中産階級の家庭に生まれた[1]。幼少期の詳細はほとんど知られていないが、ヴィクトリア朝のイングランドでは、中産階級の女性の教養教育の一部として素描や植物学が含まれており、エリザベスも若い頃から絵画や植物学の訓練を受けたとみられる[2]。成人後はガヴァネス(家庭教師)として働き、ラテン語・フランス語・音楽を教えていた[3]。
ジョン・グールドとの結婚と初期の活動(1829〜1832年)
エリザベスは1829年1月、ロンドン動物学会の剥製師・学芸員として働いていたジョン・グールドと結婚した。結婚後まもなく、エリザベスの画才は夫の博物研究に欠かせないものとなり、1830年頃から定期的に鳥類の図版を制作するようになった[4]。
1830年、ジョン・グールドのもとにヒマラヤ山脈からの鳥類標本が届いた際、夫は石版画を用いた図譜の刊行を企画し、エリザベスを主任画家に指名した。「石版に描くのは誰がするのですか?」と問うエリザベスに対し、ジョンは「あなたに決まっているじゃないか!」と答えたという逸話が伝わっている[5]。エリザベスは石版画の技法を習得するにあたって、詩人・画家のエドワード・リアの指導を受けた[6]。

こうして誕生した最初の図譜『ヒマラヤ山脈の鳥類一百種』(A Century of Birds from the Himalaya Mountains、1830〜1832年)では、全80枚の石版画がエリザベスによって制作され、版ごとに「E. Gould により自然から写生・石版に起こす(Drawn from Nature and on Stone by E. Gould)」と明記された[7]。この作品は鳥類学界で大きな反響を呼び、共著者の博物学者N・A・ヴィガーズは、エリザベスへの敬意を示してひとつの鳥の種(Cinnyris gouldiae)に彼女の名を冠した[8]。
ヨーロッパの鳥類とダーウィンとの関わり(1832〜1838年)
続く大作『ヨーロッパの鳥類』(The Birds of Europe、1832〜1837年)では、全448枚のうち380枚をエリザベスが担当した[9]。この制作では生きた鳥を参照できたため、図版の写実性と芸術的完成度はいちだんと高まった。著名な鳥類画家プリドー・ジョン・セルビーは、エリザベスの図版について「ジョン・ジェームズ・オーデュボンの作品に匹敵する」と評した[10]。
さらにこの時期、チャールズ・ダーウィンがガラパゴス諸島などから持ち帰った鳥類標本の図版制作もエリザベスが担った。ダーウィンの監修による『ビーグル号航海の動物誌』(The Zoology of the Voyage of H.M.S. Beagle)第3巻(鳥類篇)の全50点の石版画はすべてエリザベスの手によるものであるが、クレジットは主に夫ジョンに帰されている[11]。ガラパゴスのフィンチ類を描いたこれらの図版は、ダーウィンの進化論的思考の形成にも寄与したとされる[12]。
オーストラリア渡航(1838〜1840年)
1838年5月16日、エリザベスはジョンとともにオーストラリアへと旅立った。上の子どもたちを母親のもとに残し、長男のヘンリーだけを連れての渡航であった[13]。約2年間の滞在中、エリザベスは鳥類や植物の膨大なスケッチを描き、『オーストラリアの鳥類』(The Birds of Australia)および『カンガルー科のモノグラフ』(A Monograph of the Macropodidæ, or Family of Kangaroos)の素材を精力的に収集した。タスマニアでは第7子フランクリン・タスマンを出産するという過酷な状況のなかでも制作を続けた[14]。
帰国と死(1840〜1841年)
グールド夫妻は1840年8月にロンドンへ帰国した。しかしエリザベスは帰国の翌年、第8子サラの出産後に産褥熱を発症し、1841年8月15日に37歳で亡くなった[15]。死去の時点で『オーストラリアの鳥類』(全7巻)のために完成させていた図版は84枚であった。ジョン・グールドはその後、画家のヘンリー・コンスタンティン・リヒターを雇い、エリザベスのスケッチをもとに残りの図版を完成させた。ジョンは生涯再婚せず、エリザベスの貢献を深く悼んだ[16]。
芸術的業績
エリザベス・グールドは11年間のキャリア(1830〜1841年)において、650点以上の石版画・図版を設計・制作・彩色した[17]。その図版は単なる記録画にとどまらず、鳥が生き生きと動き、環境と関わる様子を描き出したもので、18世紀以前の「剥製を棒に刺して描く」アプローチとは一線を画す革新的なものであった。
石版画の制作においてエリザベスは、下絵の設計から石版への転写、彩色師への指示書となるカラーキーの作成まで、すべての工程を担った。石版画は重い石に屈み込みながら行う肉体的に過酷な作業であり、エリザベスは妊娠中もこの作業を続けた[18]。
また、近年の研究によって、ジョン・グールドが「構図の設計と下絵」の功績を主張していた一方、現存するスケッチの史料は、実際の構図の設計はエリザベスが行い、ジョンはその承認あるいは微修正を担うにとどまっていたことを示唆している[19]。
主な著作・図版
エリザベスが石版画・挿絵を担当した主な著作は以下のとおりである。
- A Century of Birds from the Himalaya Mountains(1830〜1832年)。80枚の図版。エリザベスの単独クレジット。
- The Birds of Europe(1832〜1837年)。380枚の図版。
- A Monograph of the Ramphastidae, or Family of Toucans(1834年)。24枚の図版。
- A Monograph of the Trogonidae, or Family of Trogons(1834〜1836年)。36枚の図版の大半。
- The Zoology of the Voyage of H.M.S. Beagle, Part III: Birds(1838年)。全50枚の図版(クレジットなし)。
- A Synopsis of the Birds of Australia(1837〜1838年)。120枚の図版。
- The Birds of Australia(1840〜1848年)。84枚の図版(死去のため未完)。
仕事への姿勢・追求

エリザベス・グールドは博物画家として、科学的正確さと芸術的美しさを同時に実現することを追求した。彼女は標本の剥製に頼るだけでなく、できる限り生きた鳥を直接観察することにこだわり、『ヨーロッパの鳥類』以降の作品では、鳥の生態・行動・環境を有機的に描いた。この姿勢は、鳥類を生き生きと動的に描いたジョン・ジェームズ・オーデュボンの仕事と比較されるほど高く評価された[20]。
エリザベスは石版画という当時まだ新しかった印刷技術を積極的に習得し、その可能性を最大限に活かした。鳥の羽毛の質感や目の輝きといった繊細なディテールを石版画で表現するために、彼女は素材への深い理解と労苦を惜しまない姿勢で技術を磨いた[21]。
近年の研究者たちは、エリザベスの功績が長年にわたって夫ジョンの陰に隠れていたことを批判的に検証している。フェミニスト的な観点や、自然史図版の制作史からの見直しが進んでおり、オーストラリアの作家メリッサ・アシュレーが書いた小説的伝記もエリザベスの再評価に貢献している[22]。
