エリー (象)

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生誕1935年頃 
著名な要素第2次世界大戦中に、軍の命令で感電死させられた[1]
エリー
生物インドゾウ
生誕1935年頃 
死没1945年4月27日
熊本市動植物園
著名な要素第2次世界大戦中に、軍の命令で感電死させられた[1]
飼い主熊本市動植物園

エリー1935年昭和10年〉頃 - 1945年〈昭和20年〉4月27日[1][注釈 1]は、熊本市動植物園[注釈 2]で飼育されていたメスのインドゾウである。このゾウは、第2次世界大戦中に、軍の命令で感電死させられた[1]

エリーについては、金澤太郎(当時の飼育係)とその子敏雄による証言や、絵本『ごめんねメリー』などによって語りつがれている[3][4]。2024年(令和6年)には、生前のエリーの映像が見つかった[5]

1929年〈昭和4年)7月に開園した熊本市動植物園は、9月にオスのインドゾウ「メリー」を購入した[1]。メリーは当時7歳で、すぐに子どもたちの人気を集めることになった。しかし、メリーは1937年(昭和12年)10月7日に病死してしまった[1][6][3]

1938年(昭和13年)3月5日、前年に死亡したメリーに代わってメスのインドゾウが熊本市動植物園に来園した[1][2][3]。当時3歳のこのゾウは、「エリー」と名づけられた[3]。担当となった飼育係金澤太郎は家族と一緒にゾウ飼育舎と棟続きの家に住み込み、エリーを家族同様に飼育した[3][4]。金澤の息子敏雄はエリーより1歳年下で、以後は仕切りのガラス戸1枚越しにエリーと起居を共にする友達になった[3][4]

敏雄によるとエリーはおとなしい性格で、鼻に子どもを巻き付けて背中に乗せたり、動物園内を散策したりするなどして人々から好評を博していた[3]。体を洗うついでに敏雄がホースで水をかけてやると、大喜びでバケツの水を鼻に含んで敏雄と金澤にお返しとばかりに浴びせるなど茶目っ気のある可愛い象であった[3]。そしてエリーは金澤にお座りやご挨拶などのさまざまな芸を仕込まれ、動植物園を訪れる人々の人気者となった[3][7]

日中戦争の勃発後、動物たちの食糧事情が逼迫し始め、1941年(昭和16年)には太平洋戦争に突入した[3]。1943年(昭和18年)には上野動物園猛獣の処分が行われた[3]。処分された動物には、ゾウのジョン、トンキー、ワンリー(花子)が含まれていた[3][6]。熊本市動植物園では、餌を1日おきにしたり園内にウサギの飼育場を作って動物たちの食糧の自給を試みようとしたりなどの努力を続けていた[3][8]。しかし、同年12月には熊本市動植物園でも軍の命令によって猛獣たちを翌年1月から処分することに決められた[3][6]。熊本市動植物園では当時の園長や飼育係たちが銃殺や毒殺以外の方法を模索した結果、感電死させることになった[9][10]。そして1月から秋頃までに、トラ、ライオン、クマ、オオカミなど9種15頭の動物が殺された[6][11][12]

園長や飼育係たちは、ニシキヘビカバ、ゾウは猛獣ではないと訴え、これらの動物たちは一度は難を逃れたかと思われた[13]。1945年(昭和20年)1月7日にカバが栄養失調と寒さが原因となって死亡し、ニシキヘビも暖房の燃料不足によって凍死してしまった[6][8][11]。3月には動物園の敷地の一部が陸軍第6師団に接収されることが決まり、同月の末日に熊本市動植物園は閉鎖された[6]

4月に入ると、軍の将校が「市からゾウを貰い受けて、軍で使役するために引き取る」と園に通告した[3][13]。園側がゾウの取り扱いの危険性を説明すると、将校は一旦部隊に戻っていった[3]。その後将校は再び園にやってきて、「殺して軍の食糧にする」と宣告した[3][4][13]

4月27日、ゾウの飼育舎の周囲を銃を構えた兵隊たちが取り囲んだ[3]殺処分には軍の司令官、園長、金澤一家が立ち会った[3]。当初は飼育舎のプールに高圧の電流を流す予定だったが、エリーは怯えて泣き叫び、プールへ入らなかった[3][10]。軍の命令によって、やむを得ず金澤が、エリーの大好物だったサツマイモを金属の棒の先に括りつけ、エリーが口にしたそのときに200ボルトの電流が流された[3][10][7]

エリーはプール内で解体され、側溝は流れ出る血で赤く染まった[6][8]。その死は秘密扱いとされた[3]。金澤は5年後に人事異動で熊本市交通局に転勤すると、熊本市動植物園には孫の頼みで1度訪れただけで、話題にすることも避けていた[6][8]。金澤がエリーについて語りだしたのは1974年(昭和49年)10月のことで、熊本日日新聞にその真相を明かした[3]。「何の罪もないエリーをなぜ私が⁉我が子を殺す気持ちで……涙が出て忍びなかった」と金澤は語っている[3]

エリーの体が軍に引き取られた後、本渡市(現:天草市)に住む男性が軍から家畜の飼料用として払い下げられた部分のうち、頭部を庭に埋葬していた[3][14]。男性は1950年(昭和25年)に自宅が区画整理の対象となった際に、庭からエリーの下顎の骨と臼歯を掘り出した[3]。金澤の息子敏雄はその話を知り、亡父の写真とエリーの大好物だった果物を持参して1988年(昭和63年)に43年ぶりにエリーとの再会を果たしている[3]

エリーの遺骨は、終戦後50年経った1995年(平成7年)に熊本市動植物園に寄贈された[3][2][6]。遺骨は、園内の動物資料館内にある「象のエリー」のコーナーに、当時の資料などと共に展示されている[3][2]

後世に語り継がれるエリー

1986年(昭和61年)、岩下俊子(泉ヶ丘家庭文庫主宰)はエリーに関する話を新聞で知った[4]。それは岩崎彰代志(元教員、熊本空襲を記録する会)による「水前寺動物園の動物たち」という随想で「象よ、日本にきたのが不運であった、成仏してくれ」と祈ったというものであった[4]。岩下はその記事を読み進むうちに、涙とともに怒りがこみあげてくるのを抑えられなかった[4]。彼女はこの話を何らかの形で語りつがなければ忘れ去られてしまうとの危機感を抱き、家庭文庫の仲間たちに呼びかけて、同年8月29日に岩崎を招聘してその話を聞いた[4][15]

その結果、この話を絵本にして子どもたちに伝えていくことで話がまとまった[4]。家庭文庫の仲間たちは月に1回岩下の家に集合し、熊本市同植物園などへの取材を重ねていった[15]。ストーリーはでき上がっていたものの、それをどう子どもたちにわかりやすい文章で組み立てていくかが一苦労だった[4]。それでも半年かかって文章をまとめ上げることができた[4]

文章ができると、次は挿絵の問題が出てきた[4]。岩下は中学生に描いてもらおうと思い、当時娘が通学していた中学校の美術教諭に話を持っていった[4]。美術教諭からは「お母さんたちがせっかくこれまでがんばったのだから、絵もお母さんたちでかいた方がいいのでは…」との言葉が返ってきた[4]。そこで家庭文庫の仲間たちは版画絵に取り組むことになった[4]

彫刻刀の握りかたさえ知らない家庭文庫の仲間たちのために、美術教諭が夜間の指導に来てくれた[4][15]。彫るまでの決心がなかなかつかなかったり夫や子供の協力を受けたりして、4か月後の1987年9月に16枚の挿絵が揃った[4]。その後は文を絵と合わせて何回も練り直し、印刷に出した後も校正を5回繰り返した[4]

絵本『ごめんねメリー』[注釈 3]ができ上がったのは1988年(昭和63年)2月8日のことで、岩下は早速家庭文庫の仲間たちにその話を知らせた[4]。家庭文庫の仲間たちから友人・親戚、そして子どもの先生にと話を広げていくうちにマスコミにも伝わり、取材と報道がなされた[4]。その報道によって絵本の注文が相次ぎ、10日間で500冊が完売して増刷が決定した[4]

完成後、岩下は熊本市動植物園に絵本を届けに行った[4]。萩原動物園長は絵本の完成を喜び「動物園は平和のシンボル、動物たちを二度と戦争の犠牲にしてはいけないというみなさんのお気持ちをありがたいと思います」と感謝の言葉を述べた[4]。その後は熊本市立図書館が公費で12冊購入したのを始め、「青い目の人形」で知られるシドニー・ギューリックの孫シドニー・ギューリック3世、サンアントニオ市(熊本市の姉妹都市)の動物園と図書館に贈呈した[4]

ギューリック3世とサンアントニオ市へは、英訳本が贈られた[4]。英訳は熊本大学の教員がボランティアで引き受けてくれた[4]。サンアントニオ市に絵本を持参したのは田尻靖幹市長で、姉妹都市調印とともに「絵本を平和の架け橋」にしてもらおうとの思いをこめたものであった[4]。田尻も当時の熊本市動植物園でのできごとをよく覚えていて「ライオン、ヒョウなど猛獣がすべて殺されたことを知ったときはとても胸が痛みました」と岩下と家庭文庫の仲間たちなどの労をねぎらった[4]

岩下は「本の注文をされるほとんどの人は、「熊本でもこんなことがあったとは知らなかった」といわれます。事実を正確に後世に伝えるその記録をすることは、非常に大切な仕事だと思いました」と述懐している[4]。出版を祝う会が開かれた際、金澤の息子敏雄も出席した[4]。敏雄は「この本の完成を一番喜んでいるには七年前に亡くなった父だと思います」「母は涙で読むことができませんでした」と声を詰まらせている[4]

後に敏雄は「戦争の犠牲になった象「エリー」を偲ぶ」という体験談を執筆した[3]。その体験談は「こんな悲しい事実を多くの子供に知ってほしい。二度とあの忌まわしい過去を繰り返さない大人になってほしいと願ってやみません」と締めくくられている[3]。敏雄の体験談は『孫たちへの証言 第22集』(新風書房、2009年)に収録されている[3]

2024年(令和6年)になって、生前のエリーの映像が見つかった[5]。この映像を見つけたのは熊本日日新聞元記者の松尾正一で、過去に取材していた第二次世界大戦前の映像をたまたま見返していたのがきっかけとなった[5]。松尾は敏雄に連絡を取って、その映像を確認してもらった。敏雄は映像を見たとたんに「ああ、エリーです。生きているエリーに会えて嬉しい」とその感激を語った[注釈 4][5]

松尾はエリーの映像について、「子ども達が戦争を知るひとつのきっかけになる」と述べた[5]。そして「絵本も活用できるし、写真はいっぱいあるし、骨格標本も残っているし、そこに映像が加わってよりリアルな形で、平和というか戦争というか、そういったものの姿を少しでも実感してもらえるものになるといいなと」とその理由を語っている[5]

脚注

参考文献

関連項目

外部リンク

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