エンリル・クドゥリ・ウツルはトゥクルティ・ニヌルタ1世の息子である。甥であるアッシュル・ニラリ3世の短い治世の後に王となり、5年間統治した。この王についての史料は『アッシリア王名表』と各年代記であり、王碑文は現存していない[1]。
『対照王名表(Synchronistic King List)[i 2]』はエンリル・クドゥリ・ウツルに対応するバビロンの王をアダド・シュマ・ウツル(英語版)に同定している。この王はエンリル・クドゥリ・ウツルの最終的な宿敵であった。『アッシリア・バビロニア関係史(Synchronistic History)[i 3]』では、彼とアダド・シュマ・ウツルの間の戦いによって、アッシリア内部におけるエンリル・クドゥリ・ウツルの政敵であったニヌルタ・アピル・エクルは簒奪の切っ掛けを得た。ニヌルタ・アピル・エクルはイリ・パダ(英語版)の息子であり、エリバ・アダド1世の子孫である。彼は「カルドニアシュ(バビロニア)から来て」アッシリア王位を窺った。グレイソン(Grayson)[2]やその他の学者[3]は、ニヌルタ・アピル・エクルの行動はバビロン王アダド・シュマ・ウツルの暗黙の支援を受けてのものであったと思案しているが、現在公刊されている史料にこの見解を支持する証拠はない。ニヌルタ・アピル・エクルがバビロニアにいた目的も不明である。政治的理由から亡命していたのかもしれないし、アッシリアが占領していた部分の統治者であったのかもしれない。『Walker Chronicle[i 4]』はエンリル・クドゥリ・ウツルがアダド・シュマ・ウツルに惨敗した後、自分の部下の将軍に捕らえられて引き渡された様を描写している[4]。その後、アダド・シュマ・ウツルはバビロン市自体も含めて自らの領土を拡大し続けた。
一方で、『アッシリア・バビロニア関係史[i 3]』の記録も続いており、ニヌルタ・アピル・エクルは「彼の多数の軍隊を虐殺しリッビ・アリ(Libbi-ali、アッシュルの都市)に進軍した。だが[...]が予期せず到着したため、彼は引き返し根拠地に戻った」とある。グレイソンが指摘するように、この一節は様々な解釈が可能であり[2]、その一つの可能性は、欠落した箇所に入る名前がバビロン王アダド・シュマ・ウツルが敵国アッシリアを撹乱するために解放したエンリル・クドゥリ・ウツルであるという解釈である。