オットー4世 (ブランデンブルク辺境伯)
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| オットー4世 Otto IV. | |
|---|---|
| ブランデンブルク=シュテンダール辺境伯 | |
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ブランデンブルク辺境伯オットー4世(マネッセ写本、1300年頃) | |
| 在位 | 1266年 - 1308年 |
| 出生 |
1238年ごろ |
| 死去 |
1308/9年11月27日 |
| 配偶者 | ハイルヴィヒ・フォン・ホルシュタイン=キール |
| ユッタ・フォン・ヘンネブルク | |
| 家名 | アスカーニエン家 |
| 父親 | ブランデンブルク=シュテンダール辺境伯ヨハン1世 |
| 母親 | ソフィア・ア・ダンマーク |
オットー4世(Otto IV., 1238年ごろ - 1308/9年11月27日)は、アスカーニエン家のブランデンブルク=シュテンダール辺境伯(在位:1266年 - 1308年)。矢伯(mit dem Pfeil(e))と呼ばれる。
治世
オットー4世はブランデンブルク=シュテンダール辺境伯ヨハン1世とその最初の妻ソフィア・ア・ダンマークの息子である。母方の祖父母はデンマーク王ヴァルデマー2世とその2番目の妻ベレンガリア・デ・ポルトゥガル、父方の祖父母はアルブレヒト2世とマティルデ・フォン・ラウジッツである。
1266年に父が崩御した後、オットー4世は兄のヨハン2世、弟のコンラートと共にブランデンブルク=シュテンダールを共同統治し、3人の中で最も有力な人物として台頭した。
1269年、オットー4世と共同統治者であるコンラートおよびヨハン2世は、ポメレリア公ムシチュイ2世を家臣として受け入れた(アルンスヴァルデ条約)。後にポメレリア公ムシチュイ2世はブランデンブルクの統治に抵抗し、数々の確執を引き起こした。最初の確執は1278年に勃発し、ムシチュイ2世はブランデンブルクに対抗してボレスワフ・ポボジュヌィを軍事的に支援した。
1277年、オットー4世は弟のエーリヒをマクデブルク大司教に選出させようとした。しかし、マクデブルク城伯であったクヴェアフルトの領主らも候補者を立てた。妥協案として、ギュンター1世・フォン・シュヴァーレンベルクが任命された。これがオットーとマクデブルク大聖堂の聖職者会議の間で紛争を引き起こした。フォーゼの戦いで、マクデブルクはオットーを捕らえ、檻に閉じ込めた。オットーの顧問ヨハン・フォン・ブッフは、オットーの解放のために銀4,000ポンドの身代金を支払った。この紛争は、ギュンターの後継者ベルンハルト3世・フォン・ヴェルペの治世下でも続いた。
1280年、シュタースフルトの戦いでオットーは矢を射られ倒れた。伝えられるところによると、オットーは頭に矢が刺さったまま1年間生き延びたため、あだ名の「矢伯」が付けられたという。オットーがどれくらいの間、そのような状態で過ごしていたのかは定かではない。ある伝承では「しばらくの間」、別の伝承では「何年もの間」とされている。この件を明らかにする史料は存在しない[1]。エーリヒは1283年、教皇マルティヌス4世の祝福を受けて、ようやくマクデブルク司教に任命された。
1278年、オットーはボヘミア王オタカル2世と共にハンガリー遠征に参加し、そこでドイツ王ルドルフ1世と衝突した。従兄弟で共同統治者であったオットー5世はオタカル2世の甥にあたるが、オタカル2世は1278年のマルヒフェルトの戦いで戦死した。オットー5世はオタカル2世の7歳の息子ヴァーツラフ2世の後見人となった。しかし、オットー4世はヴァーツラフ2世をシュパンダウで人質に取り、ボヘミアを略奪した。オットー4世は従兄弟のボヘミア統治に加わった。ヴァーツラフ2世は1283年、ボヘミアが身代金を支払い領土の一部を割譲した後、釈放された。ヴァーツラフ2世はその後もオットー4世と友好関係を維持した。
1283年のロストック条約により、リューベックを中心とする同盟が結成され、ヴィスマール、ロストック、シュトラールズント、グライフスヴァルト、シュチェチン、デミン、アンクラムの各都市、ポンメルン公ボギスラフ4世、リューゲン公ヴィスラフ2世、ザクセン公ヨハン1世がブランデンブルクに対抗した。1284年のフィーアラーデン条約において、オットー4世と共同統治者は、以前に征服したポンメルン領を返還した[2]。
1290年、ブランデンブルクではブランデンブルク=シュテンダール辺境伯オットー4世と、従兄弟で共同統治者であるブランデンブルク=ザルツヴェーデル辺境伯オットー5世との間で内紛が発生した。オットー5世はシュレージエンのピャスト家と同盟を結んだ。1294年、この紛争は武力衝突へとエスカレートした。1295年、アドルフ・フォン・ナッサウが調停し、紛争は解決した。同年後半、オットー4世はブラウンシュヴァイク=リューネブルク公オットー2世と同盟を結んだ。
1292年、ドイツ王ルドルフ1世の崩御後、オットーはルドルフ1世の息子アルブレヒト1世の立候補に対抗し、ナッサウ公アドルフの選出を支持した。この件において、オットー4世はボヘミア王(かつての庇護下で囚人であったヴァーツラフ2世)と結託していた。ヴァーツラフ2世こそが、反ハプスブルク家とアドルフの立候補を扇動した張本人であった。
1292年、オットー4世はランツベルク辺境伯領を、さらに翌年にはザーレ=ウンストルート地方のザクセン宮中伯領を購入した。1303年には、ディートリヒ4世からラウジッツを購入した。
1296年、ブランデンブルクはポンメルンを占領していたポーランド王プシェミスウ2世との戦争を開始した。ブランデンブルクもポンメルンに対する領有権を主張し、バルト海に港湾を保有したいと考えていたためである。しかしこの戦争は失敗に終わった。
1298年、オットー4世はアドルフ王の打倒には参加したが、アドルフ王に対する軍事作戦には参加しなかった。オットー4世は、ロストック領主ニコラウス1世、リューゲン公ヴィスラフ2世、ブラウンシュヴァイク=グルーベンハーゲン公ハインリヒ1世、ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公およびゲッティンゲン公アルブレヒト2世、そしてブランデンブルク司教およびハーフェルベルク司教とも争った。司教たちとの対立は、最終的にオットー4世に対する秘蹟執行禁止命令が宣告されるに至った。
騎士道
オットー4世は騎士道精神を体現したと伝えられ、その生涯を「当時最も聡明で勇敢な君主の一人」と評されている。伝記からも、やや好戦的であったことが窺える。また、吟遊詩人としても活躍し、上部ドイツ語で書かれた7曲の歌曲が現存している。同時代の他の作曲作品と比較しても、オットー4世の作品は傑作と言える[3]。