オットーネ・ヴィスコンティ
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| オットーネ・ヴィスコンティ Ottone Visconti | |
|---|---|
| ミラノ大司教 | |
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| |
| 教会 | カトリック教会 |
| 教区 | ミラノ |
| 着座 | 1262年7月22日 |
| 離任 | 1295年8月8日 |
| 前任 | レオーネ・ダ・ペレーゴ |
| 後任 | ルッフィーノ・ダ・フリッセート |
| 個人情報 | |
| 出生 |
1207年 マッシーノ・ヴィスコンティ、インヴォーリオ |
| 死去 |
1295年8月8日 ミラノ、キアラヴァッレ修道院 |
| 墓所 | ミラノ大聖堂 |
| 両親 |
父:ウンベルト・ヴィスコンティ 母:ベルタ・ピローヴァノ |
| 座右の銘 | Vipereos Mores Non Violabo |
| 紋章 |
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オットーネ・ヴィスコンティ(Ottone Visconti, 1207年 - 1295年8月8日)は、ミラノ大司教、ミラノ僭主であり、ヴィスコンティ家の初代当主。その統治下で、ミラノは強力な皇帝派の都市となり、神聖ローマ帝国のイタリアにおける拠点の一つとなった。
生い立ち
オットーネは、マッシーノ領主ウベルト・ヴィスコンティとベルタ・ピロヴァーノの6人の子供のうちの1人としてノヴァーラ近郊のインヴォーリオで生まれた[1]。弟アッツォーネ(後にヴェンティミリア司教)とともに、オットーネは聖職者の道を歩むよう決められた。デージオの参事会員となり、1247年には有力な枢機卿オッタヴィアーノ・デッリ・ウバルディーニの侍従となった[2]。ウバルディーニの庇護の下、オットーネは1252年にミラノ大司教レオーネ・ダ・ペレーゴによってフランスへの特使に任命され、教皇インノケンティウス4世の信頼を得て、教皇に仕える司祭となった[3]。
1257年にレオーネ・ダ・ペレーゴが死去すると、オットーネはウバルディーニ枢機卿の支持を受け、ライモンド・デッラ・トーレに対抗してミラノ大司教の後継者となった。この行動は、ミラノ大司教の任命に関して独立した権利を主張していたミラノ領主マルティーノ・デッラ・トーレ(ライモンドの親戚)の不興を買った。マルティーノの反対にもかかわらず、教皇ウルバヌス4世は1262年7月22日にオットーネをミラノの新大司教に選んだ[4]。
権力闘争
教皇の決定でもマルティーノ・デッラ・トーレの敵意は止められず、マルティーノは1262年8月にミラノ大聖堂を占拠し、教皇特使フィリッポ・ディ・ピストイアにより破門された。この行為はデッラ・トーレ家(トリアーニ家)とヴィスコンティ家の間で争いを引き起こした。両家は政治的にも対立していた。デッラ・トーレ家は歴史的に教皇派であり、アンジュー家のシャルル1世と同盟を結んでいたのに対し、ヴィスコンティ家は皇帝派であり、下級貴族の代表者であった[5]。
教皇の任命を受けヴィテルボ近郊のモンテフィアスコーネに滞在していたオットーネは、1263年4月1日にアローナへ進軍し、そこでデッラ・トーレ家と対立しミラノから逃亡してきた数人の貴族と会った。オットーネがロンバルディアにいることを知ったマルティーノは、アローナを包囲するために軍隊を派遣した[3]。近くのアンジェラ城を占領していたオットーネは、1263年5月5日に降伏を余儀なくされた。モンテフィアスコーネに戻ったオットーネは、1264年10月にウルバヌス4世が亡くなり強力な同盟者を失った。しかし、デッラ・トーレ家はライモンドの正式な任命を得ることはできず、マルティーノの死後、かつて忠実だったパラヴィチーノ家はヴィスコンティ側に寝返り、1266年1月にヴェルチェッリのポデスタであるパガニーノ・デッラ・トーレの暗殺を企てた。これに対し、ミラノの新領主ナポレオーネ・デッラ・トーレは、陰謀を企てたと疑われた53人の貴族を処刑した[6]。この残忍な行為は、デッラ・トーレ家のミラノ支配を弱体化させ、ピアチェンツァのヴィスコンティ家出身の教皇グレゴリウス10世が1273年にオットーネ・ヴィスコンティをミラノの正当な大司教として承認したことで、事態はさらに悪化した。ナポレオーネ・デッラ・トーレは、自分を支持しない貴族をすべて追放することでこれに対抗し、ノヴァーラとパヴィアで亡命者連合が結成された。彼らの財政的・軍事的支援を利用して、オットーネの甥テオバルド・ヴィスコンティはヴェルチェッリで軍を率い、カステルセプリオを占領した。トリアーニの軍に敗れたテオバルドはコモ近郊のルラーテに逃げたが、ガッララーテでの戦いの後、テオバルドの軍勢は敗北し、1276年にナポレオーネ・デッラ・トーレによって斬首された。同年ロンバルディアに戻ったオットーネは、自身が司祭を務めていたデージオ近郊で支持者を集め、1277年1月の血みどろの戦いの後、オットーネが勝利した。ナポレオーネ・デッラ・トーレはカステル・バラデッロに投獄され、拷問の末に処刑され、弟フランチェスコは戦いの後に処刑された。オットーネは1277年1月22日にミラノに入城し、ヴィスコンティ家初の事実上のミラノ支配者となった[3]。
統治と晩年
69歳でミラノの領主となったオットーネは、ミラノとロンバルディアにおける一族の勢力を強化しようとした。その統治は決して平穏ではなかった。デッラ・トーレ家は依然としてシニョリーア(領主)位を主張し、ローディとカステルセプリオを征服し、アッダ川とティチーノ川の間の地域を無法者として支配した。オットーネは同盟者であるモンフェッラート侯グリエルモ7世の支援を求め、グリエルモ7世は総司令官(カピターノ・ジェネラーレ)としてミラノの統治権を要求し、1278年にこれを得た。1281年にグリエルモ7世が寝返った後、オットーネはミラノにおける全権を取り戻し、同年ヴァプリオ・ダッダの戦いでカッソーネ・デッラ・トーレを破り、カッソーネは戦死した。一方、ミラノ大司教区の統治権主張者ライモンドはフリウーリに逃亡した。
1287年、オットーネは大甥のマッテーオ1世・ヴィスコンティを新たな総司令官に任命し、政治をマッテーオ1世に委ねた[7]。1291年8月、聖地アッコがイスラム軍により陥落した後、教皇ニコラウス4世はオットーネに、都市奪還の方法を決定するための新たな地方評議会の招集を急ぎ、その活動を支援するために聖職者に特別税を課すよう要請した[8]。1294年、マッテーオ1世・ヴィスコンティはドイツ王アドルフによって帝国代理司令官の称号も与えられた[9]。晩年、オットーネはミラノの政治には一切関わらず、宗教問題に専念した。オットーネは1295年8月8日、88歳でキアラヴァッレ修道院で死去し、ミラノ大聖堂に埋葬された[3]。
脚注
- ↑ Pyle 1993, p. 567.
- ↑ Visconti 2025.
- 1 2 3 4 Simeoni 1937.
- ↑ Rapelli 2011, p. 296.
- ↑ Motta 1931.
- ↑ Caso 1989.
- ↑ Gamberini 2014, p. 22.
- ↑ Andenna 2015, pp. 70–71.
- ↑ Lee 2018, p. 52.
参考文献
- Andenna, Giancarlo (2015). “The Lombard Church in the Late Middle Ages”. In Gamberini, Andrea. A Companion to Late Medieval and Early Modern Milan. Brill. pp. 69-92. ISBN 978-90-04-28409-8 70-71
- Caso, Anna (1989). “Della Torre, Napoleone, detto Napo”. Treccani (イタリア語). Vol. 37. Dizionario Biografico degli Italiani.
- Gamberini, Andrea (2014-11-28). “Milan and Lombardy in the Era of the Visconti and the Sforza”. In Gamberini, Andrea. A Companion to Late Medieval and Early Modern Milan. Leiden: Brill. pp. 19–30. doi:10.1163/9789004284128. ISBN 9789004284128. OCLC 897378766
- Lee, Alexander (2018). Humanism and empire : the imperial ideal in fourteenth-century Italy. Oxford: Oxford University Press. ISBN 978-0-19-166264-5. OCLC 1023576095. https://books.google.co.jp/books?id=kPhJDwAAQBAJ&pg=PA52 2019年4月30日閲覧。
- Motta, Antonio (1931). “Della Torre”. Enciclopedia Italiana (イタリア語).
- Rapelli, Paola (2011). Symbols of Power in Art. The J. Paul Getty Trust. ISBN 978-1-60606-066-7
- Pyle, Cynthia M. (1993). “Towards the Biography of Gaspar Ambrogio Visconti”. Bibliothèque d'Humanisme et Renaissance 55 (3): 565-582. https://www.jstor.org/stable/20679507.
- Simeoni, Luigi (1937). “VISCONTI, Ottone”. In Forni Urso (ed.). Enciclopedia Italiana (イタリア語).
- Visconti (2025). “Ottone Visconti”. Treccani (イタリア語). Istituto della Enciclopedia Italiana fondata da Giovanni Treccani.
- Zaninetta, Paolo (2013). FrancoAngeli. ed (イタリア語). Il potere raffigurato. Simbolo, mito e propaganda nell'ascesa della signoria viscontea
- Lopez, Guido (2010). Newton Compton. ed (イタリア語). I Signori di Milano, dai Visconti agli Sforza
- Bellonci, Maria; Dell'Acqua, Gian Alberto; Perogalli, Carlo (1977). CARIPLO. ed (イタリア語). I Visconti a Milano
- Bellonci, Maria (1973). Mondadori. ed (イタリア語). I Tu vipera gentile
- Pacca, Paolo (1972). Mondadori. ed (イタリア語). Le Grandi Famiglie d'Europa: I Visconti. 8
- Urbano, Vittorio; Visconti, Crivelli (1972). Forni Urso. ed (イタリア語). La nobiltà lombarda
- Litta, Pompeo, Count (1847). Silvestri. ed (イタリア語). Ritratti dei Visconti Signori di Milano
- Giovio, Paolo (1645). Gio. Batt. Bidelli. ed (イタリア語). Vite dei Dodeci Visconti che Signoreggiarono Milano
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