オディロン・バロー
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1791年7月19日[1]、ロゼール県ヴィルフォール(英語版)で生まれた[2]。父ジャン=アンドレ・バロー(フランス語版)[1]は弁護士で、国民公会の一員としてルイ16世の処刑に賛成票を投じた人物だった[2]。オディロン・バローは最初サン・シール陸軍士官学校に入学したが、やがてパリのリセ・ナポレオン(現アンリ4世校)に転校して法律を学び、1811年にパリで弁護士になった[2]。その後、ジャン=バティスト・マイユ(英語版)の事務所で働いた[2]。マイユは国務院と破毀院で働く弁護士で、1815年の第二次王政復古で海外追放となった人物である[2]。
バローはマイユと同じく国務院と破毀院で働く法廷弁護士になり、政治犯の裁判におけるふるまいから復古王政への不満を持っていることがわかっている[2]。1827年に結社「天は自ら助くる者を助く(英語版)」に加入し、1830年3月に221人の勅語奉答に署名した議員221名をもてなす宴会にも出席したが、ラファイエットらによる政権転覆の計画には関わらなかった[2]。しかし、1830年7月26日に七月勅令(英語版)が発表されると、国民衛兵に加入して七月革命に関わった[2]。革命後の政体に関しては急進共和派に反対して、立憲君主制を主張した[2]。国王シャルル10世の亡命にあたり、シャルル10世をエスコートする代表3名のうちの1人に選ばれた[2]。シャルル10世が亡命した後、セーヌ県知事(フランス語版)に任命されたが、穏健な態度をとったことが災いして、フランス革命期のパリ市長ジェローム・ペティヨン・ド・ヴィルヌーヴ(英語版)のようだと形容された[2]。ジャン・マクシミリアン・ラマルク将軍の葬儀をきっかけに発生した六月暴動では反乱者の1人を破毀院で弁護して勝訴した[2]。
1830年10月よりウール県選出代議院議員になり、その後1831年の選挙(英語版)でバ=ラン県、1834年(英語版)、1837年(英語版)、1839年(英語版)、1842年(英語版)、1846年(英語版)、1848年(英語版)、1849年(英語版)の選挙でエーヌ県から選出された[1]。1842年にオルレアン公フェルディナン・フィリップが死去すると、王位継承者がその息子パリ伯フィリップになり、摂政の人選が問題となったが、バロー率いる党派はオルレアン公妃エレーヌの代わりにヌムール公ルイ・シャルルが摂政を務めるべきだと主張した[2]。
1846年に近東を旅した後、本国で改革宴会(英語版)を開催し、再度の革命を回避するには選挙法を改正すべきだと主張した[2]。しかしバローはこの運動の影響を見誤り、1848年2月24日にも議会でオルレアン公妃が摂政に就任すべきだと主張したが、このときには二月革命が起こっており、小手先の政策では革命を回避できなかった[2]。結局バローは第二共和政の成立を認め、ルイ・ウジェーヌ・カヴェニャック将軍への支持を表明した[2]。第二共和政では1848年12月20日に閣僚評議会議長(首相)に就任したが[1]、大統領ルイ・ナポレオンは議会との決裂を回避するためにバローを利用したにすぎず、1849年に用済みとばかりにバローを罷免した[2]。
1851年12月2日のクーデターの後は短期間投獄され、一時政界から引退した[2]。1869年にエミール・オリヴィエが内閣主席(首相)に就任したことで、バローは政界に復帰して[2]、第二帝政が倒れた後はアドルフ・ティエールにより1872年7月27日に国務院副長官(フランス語版)に任命された[1]。しかしバローは健康を害しており、1年ほど務めた後1873年8月6日にブージヴァルで死去した[2]。
出典
外部リンク
| 公職 | ||
|---|---|---|
| 先代 ルイ・ウジェーヌ・カヴェニャック |
閣僚評議会議長 1848年 – 1849年 |
次代 アルフォンス・アンリ・ドプール |
| 先代 ピエール・マリー・ド・サン=ジョルジュ(英語版) |
司法大臣 1848年 – 1849年 |
次代 ウジェーヌ・ルエール(英語版) |
