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ポチョムキンの階段

ウクライナのオデーサにある巨大な階段 From Wikipedia, the free encyclopedia

ポチョムキンの階段(ポチョムキンのかいだん、ウクライナ語: Потьомкінські сходи, Pot’omkins’ki Skhоdy, ロシア語: Потёмкинская лестница, Potyomkinskaya lestnitsa. 英語: The Potemkin Stairs)は、ウクライナのオデーサにある巨大な階段である。この階段は海の方角からオデーサ市街地の玄関口や象徴と考えられ、オデーサの階段としても知られる[1]。

座標 北緯46度29分19秒 東経30度44分31秒
設計者 フランシスコ・ボッフォ(英語版)、アフラアアム1世・メルニコフ(英語版)、ポッテ
素材 花崗岩、アスファルト(砂岩、建設当初)
概要 ポチョムキンの階段, 座標 ...
ポチョムキンの階段
Потьомкінські сходи  (ウクライナ語)
Потёмкинская лестница  (ロシア語)
ポチョムキンの階段(2020年)
ポチョムキンの階段の位置(ウクライナ内)
ポチョムキンの階段
ポチョムキンの階段 (ウクライナ)
ポチョムキンの階段の位置(オデーサ内)
ポチョムキンの階段
ポチョムキンの階段 (オデーサ)
座標 北緯46度29分19秒 東経30度44分31秒
所在地  ウクライナ オデーサ
設計者 フランシスコ・ボッフォ(英語版)、アフラアアム1世・メルニコフ(英語版)、ポッテ
素材 花崗岩、アスファルト(砂岩、建設当初)
幅 12.5メートル - 21.7メートル
高さ 27メートル
建設開始 1837年
完成 1841年
献納 戦艦ポチョムキン
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下からは踊り場が見えない
上からは階段が見えない

現在の公式名称は「プリモルスキー (Primorsky) の階段」[2]。当初は「ブールバール (Boulevard) の階段」、「巨大階段」[3]、あるいは「リシュリュー (Richelieu) の階段」として知られていた[4]。

最上段のステップは幅12.5メートル、最下段のステップは幅21.7メートルである。高さは27メートル、奥行きは142メートルに達する[5][6][7]。

階段は錯視を作り出すためにデザインされている。階段を見下ろす人には踊り場だけが見え、階段を見上げる人には階段だけが見えて踊り場が無いように感じられる[1][8]。また、階段は上より下のほうが広いので、二次的な錯視は偽の視点を作り出している。階段を見上げると階段が実際より長いように見せ、階段を見下ろすと階段をそれほど長いようには見せない。

歴史

ロシア帝国時代の建設

1850年ごろのポチョムキンの階段を描いたもの。階段が高台の市街地と港を結ぶために建設されたことがよくわかる。

オデーサの街は高台に位置していて、下の湾にある港へ直接通じる必要があった。階段が建設される前、曲がりくねった道と粗末な木造の階段だけが湾へのアクセスであった[1]。

1825年に伊サルデーニャ出身の建築家フランシスコ・ボッフォ(英語版)、サンクト・ペテルブルクの建築家アフラアアム1世・メルニコフ(英語版)とポッテによって元来の200段の階段がデザインされた[1][9][10]。階段の建設費用は80万ルーブルであった[1]。

1837年に、「怪物のような階段」を建設する決定がなされ、1837年から1841年までの間に建設された。英国の技術者ジョン・アップトン(英語版)が階段を建設した。アップトンは偽造罪で保釈中に英国から逃亡していた[11]。建設の材料にイタリアのトリエステ(当時はオーストリア帝国領)の緑灰色の砂岩が船で輸送されてきた[1][2][8]。

ソ連時代に「映画史上もっとも有名な階段」に

オデーサの階段の虐殺 。映画『戦艦ポチョムキン』(1925年)から。

階段はセルゲイ・エイゼンシュテインの1925年のサイレント映画『戦艦ポチョムキン』で有名になった。同作品では、1905年6月14日に、兵士たちが階段にいる人々に発砲する場面を描いている。

当時オデーサにいたジャーナリストのコルネイ・チュコフスキーによれば、6月15日には階段上部がロシア帝国軍の兵士たちによって封鎖されており、同日の夜には階段全体が同軍によって占拠されていた。チュコフスキーは史料から軍が小銃射撃を開始したこと自体は確認できるものの、それが階段でも行われたかは不明としている[12]。

実際、ポチョムキン号の到着に伴ってオデーサで発生した騒乱ではロシア帝国軍が群衆に発砲しており、タイムズ及びオデーサ駐在の英国総領事館もロシア軍による群衆への発砲と多数の死者を報告している。『タイムズ』は軍と暴徒との激しい衝突が発生し、死者は数百人に上ると報じた[13]。

エイゼンシュテインの映画にて描かれた、兵士たちが階段を下りながら群衆を虐殺する場面は、実際にオデーサで発生した騒乱とロシア軍による弾圧を、階段を舞台とする出来事として劇的に再構成した表現である。同様のメソッドは後世の写真家に使用され、写真家アレクセイ・チタレンコ(英語版)は「影の都市」のシリーズで、サンクト・ペテルブルクの地下鉄の駅の近くの階段にいる、どん底の人々からなる群衆を、人間の悲劇の象徴の一つとして使用している[14]。

改修

浸食による階段の破壊にともない、1933年には砂岩が南ブーフ川地域のローズ・グレーの花崗岩に取り換えられた。さらに踊り場がアスファルトで覆われた。港が拡張されたとき、階段のうち8段が砂の下に失われ、階段の数は192段、踊り場は10となり縮小された[1][8]。

階段の左側には、1902年に人々を徒歩の代わりに輸送するためのケーブルカーが建設された[15]。建設から50年後の1970年に、ケーブルカーはエスカレーターに取り換えられた[16][15]。1990年代にエスカレーターが故障したため、市当局は新たなケーブルカーの建設を決定し、2005年9月2日にオデーサ設立211周年を記念して開通した[2][15]。

『戦艦ポチョムキン』後の名前の変遷

ロシア革命後の1955年に「プリモルスキーの階段」は、戦艦ポチョムキンの叛乱から50年経ったことを記念して「ポチョムキンの階段」と再命名された[17]。映画は、ポチョムキンの叛乱を含むロシア第一革命後20周年を記念して制作されており、このことから1955年は映画公開30周年でもある。

ウクライナ再独立後、ポチョムキンの階段は、オデーサの多くの通りと同様に、元来の名前「プリモルスキーの階段」に戻った。しかしほとんどのオデーサ市民は今もこの階段のソビエト時代の名前を知っており、この階段に言及するときは「ポチョムキンの階段」と呼んでいた[2]。

リシュリュー公のモニュメント

リシュリュー公の像

階段の頂上には、リシュリュー公アルマン・エマニュエル・ド・ヴィニュロー・デュ・プレシを描いたモニュメントが立っている。彼はフランスの貴族であり、1803年にオデーサ初代知事になった。ロシアの彫刻家イワン・ペトロヴィチ・モルトス(英語版)(1754–1835年)はこの古代ローマのトーガとクラッドをまとった姿をデザインした。彫像はイェフィモフによってブロンズに鋳造され、1826年に発表された。オデーサに最初に建立されたモニュメントである[18][9][19]。

2014年クリミア併合以降の影響

2014年のロシアによるクリミアの併合や2022年2月のロシアのウクライナ侵攻により、ウクライナ人のロシア語話者の間でも、ロシア語由来の名称や事象を維持していくことに対する疑義が起こり、街中のロシアの文化や言語に関連する文化遺産、建築物、標識などの扱いをどうすべきかを協議する市の委員会が立ち上げられ、「ポチョムキンの階段」もその協議の対象としてあげられた[20]。

またロシアによる侵攻が始まると、攻撃に晒されやすく、かつ敵対勢力の上陸に利用されやすい港に近接したポチョムキンの階段は、一般市民の出入りが禁止された[21]。

世界遺産

2023年1月25日に開催された世界遺産委員会の臨時会議において「オデーサ歴史地区」の名称で緊急案件扱いで世界遺産に登録され(ウクライナの地名の呼称変更に基づきロシア語のオデッサではなくウクライナ語のオデーサの読みで登録)、同時に危機遺産にも指定された中に、プリモルスキーの階段として構成資産として含まれた[22]。

登録後に記者会見したオードレ・アズレユネスコ事務局長は、「自由都市、世界都市、映画、文学、芸術に足跡を残した伝説の港が保護されることになった」とコメントした[23]。

ギャラリー

出典

参考文献

関連項目

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