オハイオ州立矯正施設
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2013年撮影 | |
| 所在地 | オハイオ州リッチランド郡マンスフィールド |
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| 座標 | 北緯40度47分07秒 西経82度30分18秒 / 北緯40.78528度 西経82.50500度座標: 北緯40度47分07秒 西経82度30分18秒 / 北緯40.78528度 西経82.50500度 |
| 現況 | 閉鎖(現在は博物館) |
| 許容人数 | 約1,900人 |
| 開設 | 1896年9月15日 |
| 閉鎖 | 1990年12月31日 |
| 所長 | アーサー・ルイス・グラック(任期 1935-1959) |
| 国 |
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| ウェブサイト | https://www.mrps.org/ |
オハイオ州立矯正施設(オハイオしゅうりつきょうせいしせつ、またはオハイオ州立少年院、Ohio State Reformatory) はアメリカ合衆国オハイオ州マンスフィールドにあった若年層向けの刑務所で、1896年に運用が始まり1990年に閉鎖した。1994年の映画「ショーシャンクの空に」の撮影に使用され有名になった。
運用開始
1867年、オハイオ州はマンスフィールドの南北戦争時の北軍演習場跡地に『中級刑務所』の建設を計画した。中級刑務所とは、少年院に入るほど若くなくオハイオ州刑務所に入るほど重罪ではない16~30歳の初犯の受刑者を対象とする実験的な施設のことであった。
160万ドルの予算が組まれ1886年に着工した。施設は『オハイオ州矯正施設』と命名され、未完成のまま1896年9月15日にコロンバスのオハイオ州刑務所から最初の150人が移された。受刑者は下水道や石塀の工事を手伝わされ1910年に完成した[1]。

この施設は受刑者に罪を償わせるのではなく、学校と同じような授業や職業訓練を受けさせ、犯罪者の自立と社会復帰を目標とした。実際に釈放後の再犯率は低かった。
しかし1920年に禁酒法が施行されると共に収容者数はたちまち3倍に跳ね上がり、1人用の独居房を2人、場合によっては3人で使用し、環境の悪化で暴力が日常化した[2]。さらに追討ちを掛けるように1930年4月にオハイオ州刑務所で火災が発生し、約200人の囚人が移ってきたため深刻な過密状態となった[1]。1920年代~1930年代にかけて殺人や自殺、病気などが原因で200人以上の受刑者が死亡し2人の看守が殺害された[3][4]。
1940年~1950年代は第二次大戦下における失業者の低下や戦後の好景気のおかげで犯罪者数が減少し、1960年代まで比較的安定した状態が維持された。1935~1959年に所長を務めたアーサー・L・グラックは、各独居房に伝声管を敷設してクラシック音楽やラジオ放送を流すなどの環境改善を行い受刑者からも敬われた[5]。
施設の閉鎖
1960年代後半になると犯罪件数が激増し、『犯罪者の矯正など無意味だ』という論調が世間に広まっていた[6]。施設は本来の意義を失い、1969年から第一級および第二級殺人の重罪犯を受け入れ始め、収容可能人数1,900人のところに2,400人が押し込められる事態となった。
また老朽化のため建物の管理が行き届かず、「夏場の上層階はまるでサウナだ」「ゴキブリが耳に入らないようにヘアネットを被って寝ている」といった証言もあるように空調や衛生面で様々な問題を抱えた[7]。あまりの過酷さに囚人たちは人権侵害だと訴訟を起こし、1983年に連邦裁判所は施設の運用停止を命じた[8]。
1990年に1キロほど離れた場所に完成した「マンスフィールド矯正施設」に全ての機能を移転し、オハイオ州矯正施設は閉鎖した。
保存活動
閉鎖から3年後、映画「ショーシャンクの空に」の撮影が終わったあと全ての塀と北側の別棟が取り壊された。全て除却する予定だったが、1995年に「マンスフィールド少年院保存協会」が発足し保存が決まった[9]。
施設は博物館として生まれ変わり「オハイオ矯正施設博物館」「ショーシャンク博物館[10]」「ノースセントラル・オハイオ工業博物館[11]」の3つの展示スペースが作られた。刑務所や地域の歴史が学べるツアー、映画の撮影地を巡るツア-、ゴーストハンティングツアー(いわゆる肝試し)などが行われている[12]。維持管理費はこれらの入場料やツアー代金、寄付などで賄われている。
博物館には電気椅子が展示されているが、ここに処刑場はなく他所から移したものである。また「ショーシャンクの空に」の撮影で設置した金庫や「エアフォース・ワン」の撮影で作られた門扉が残されている。

