オレグの父のヤロスラフはオリガ(ユーリー・ドルゴルーキーの娘)を正妻としていたが、後に関係が破綻し、1172年にオリガは実子のウラジーミルを連れてガーリチから出奔した。ボヤーレ(貴族)のコンスタンチンはオリガ派に立ちポーランド行きに付き添い、また、ガーリチのボヤーレはアナスタシヤを魔女として焼き殺した[2] 。オレグは投獄された[3]。ただし、ヤロスラフはウラジーミルよりも、愛人の子であるオレグを偏重しており、死後、ヤロスラフの所領であるガーリチ公国はウラジーミルではなくオレグに遺贈された。ウラジーミルには公国内の一都市のペレムィシュリが遺された[1]。
しかしヤロスラフの死後まもなく、ウラジーミルはボヤーレと結託して遺言を破り、オレグを追放してガーリチ公位に就いた。オレグはオーヴルチ公リューリク(ru)の下へ逃走した[3]。
ルーシの年代記には、以降のヤロスラフの動向について記したものはなく、以下はポーランドの史料の1つによるものである。ガーリチから逃走したオレグはリューリクの支援を得られず、ポーランド王カジミェシュ2世の下へ行き、カジミェシュと共にウラジーミルに対する軍を挙げた。ウラジーミルは敗れ、ハンガリーへと逃亡した。なおルーシの史料では、ウラジーミルのハンガリーへの逃亡は、ウラジーミルが酒に溺れ、国政に興味を持たないことに対し、ガーリチのボヤーレが反乱を起こしたためであると記されている。いずれにせよ、オレグは再度ガーリチ公位に就いた。しかしまもなくしてオレグは毒殺され、ガーリチ公位にはボヤーレによって招かれた、ヴォルィーニ公ロマンが就いた[3]。