オーブリー・ド・ヴィアー2世
From Wikipedia, the free encyclopedia
| オーブリー・ド・ヴィアー2世 Aubrey de Vere II | |
|---|---|
| 出生 |
1085年ごろ |
| 死去 |
1141年5月 |
| 埋葬 |
|
| 配偶者 | アデライザ(アリス)・ド・クレア |
| 子女 | 本文参照 |
| 家名 | ド・ヴィアー家 |
| 父親 | オーブリー・ド・ヴィアー1世 |
| 母親 | ベアトリス |

オーブリー・ド・ヴィアー2世(Aubrey de Vere II, 1085年ごろ - 1141年5月)は、イングランド大侍従卿およびロンドン長官。"Alberic[us] de Ver"あるいは"Albericus regis camerarius"(王の侍従)としても知られる。オーブリー・ド・ヴィアー1世とその妻ベアトリスの次男(長男は早世)で、ノルマン・コンクエスト後のイングランドでド・ヴィアー姓を名乗った2番目の当主となった[1]。
オーブリー2世は、ヘンリー1世とスティーブン王の下で国王の侍従長および司法官を務めた[2]。ヘンリー1世はオーブリーをロンドンとエセックスの長官に任命し、リチャード・バセットと共に11の伯領の長官も務めた。1130年、オーブリーは拘留中の囚人の脱走など、様々な罪で国王に550ポンドと4頭の馬の罰金を課した[3]。これは、オーブリーが日常的に囚人の管理を行っていたことを示唆している。1133年6月、国王はオーブリーとその相続人に大侍従卿の職を与えた。ヘンリー1世とスティーブン王の特許状の証人をしばしば務めたが、ヘンリー1世がノルマンディーへ赴いた際に同行したのは一度だけであったようである。年代記作者ウィリアム・オブ・マームズベリーの記録によると、1139年、オーブリーはウィンチェスターの教会会議においてスティーブン王の代弁者を務めていた。この会議は、ソールズベリー司教ロジャーとその甥であるイーリー司教およびリンカーン司教が保持していた城の接収についてスティーブン王が説明を求められたときのことであった[4]。イングランド内戦中の1141年5月、オーブリーはロンドンの暴徒に殺害され、エセックスのコルン修道院にある一族の霊廟に埋葬された。
コルン修道院の庇護者であったことに加え、オーブリーはブルターニュ地方レンヌのベネディクト会修道院セント・メラニー小修道院を、エセックスのハットフィールド・ブロードオーク(ハットフィールド・レジス)に創建、もしくは財政支援していた。エセックスのヘディンガムの石造の塔は、オーブリーが着工し、後にオックスフォード伯に叙せられた息子で後継者のオーブリー・ド・ヴィアーが完成させた可能性が高い。オーブリーの子孫はオックスフォード伯位を保持し、1703年にド・ヴィアー家の男系が断絶するまで大侍従卿の職を務めた[5]。