第11代スルターンのカイクバード1世の子として生まれる。
1229年5月、ホラズム・シャー朝のスルターン・ジャラールッディーン・メングベルディーは、ルーム・セルジューク朝のスルターン・カイクバード1世に使節を派遣し、その書簡の中で友好関係を樹立し、同盟を結ぶべきであると表明した。カイクバード1世はこれらの意見に同意し、絆を固くするためにジャラールッディーンの娘を息子のカイホスローに娶らせようと欲したが、拒否された。
1237年に父が死去したため、第12代スルターンに即位した(カイホスロー2世)。
1243年のキョセ・ダグの戦い。ルーム・セルジューク朝軍を追跡するモンゴル軍の姿が描かれている歴史家のハイトンが著した『東方史の華』のフランス語写本の挿絵(14世紀)
1242年、チョルマグンに代わり、モンゴル帝国のイラン鎮戍軍(タマ軍 lashkar-i Tamā)司令官となったバイジュはアルメニア人とグルジア人からの徴発兵士を含む一軍を率いてエルゼルム市を包囲しに行った。ここを守っていたのはルーム・セルジューク朝のシナーヌッディーン・ヤークートであったが、2か月の末に城壁は12台の投石機によって破壊され陥落した。
1243年、バイジュは続いてエルズィンジャーン地方に侵入した。カイホスロー2世は約2万騎の軍隊を率いてスィヴァース市へ向かって進軍した。この軍にはキプロス島出身のジャン・リミナタ、ジェノヴァ共和国出身のボニファキウス・デ・カストロの指揮する2千のフランク人が参加していたが、アルメニア王、ホムス市およびマイヤーファーリキーン市の王侯たちは参加しなかった。カイホスロー2世はスィヴァース市からエルズィンジャーン地方の小都邑、アクシャフルの平原に駐屯していたモンゴル軍を迎え撃ちに行った。カイホスロー2世はキョセ・ダグと呼ばれる山の上に陣を敷き、攻撃を開始した。しかし、テュルク人はモンゴル軍からの矢の一斉攻撃を受けて逃げ出し、全軍は潰走した。カイホスロー2世は幕営に走り帰り、後宮をコニア市に向けて出発させ、自分の幕営と輜重を棄てて逃げた。モンゴル軍はルーム・セルジューク朝軍の潰走に驚いて策ではないかと疑ったが、本当であることを覚ると陣地を離れた。モンゴル軍はカイホスロー2世の去った幕営を掠奪しに行き、周辺各地へ進出した。スィヴァース市は早々に降伏したおかげで殺戮と捕虜になることは免れたが、都城と城壁を破壊され、兵器は焼き払われた。次いでトカト市とカイサリア市も掠奪された。
バイジュはスィヴァース市付近の幕営にてカイホスロー2世の将軍とアマスィア市の法官(カーディー)と面会し、彼らが和平を求めてきたので、40万ディーナールの歳貢と織物、馬匹、奴隷を献上することを条件に許可した。カイホスロー2世は後からこのことを聞いたが喜んだ。
モンゴル軍は2か月後にルームから撤退したが、エルズィンジャーン市付近に駐屯したままで、この都市に金銭の貢納を要求した。しかし、エルズィンジャーン市はこれを拒否したため、モンゴル軍は弩砲を放って城壁に穴をあけ、この都市の住民を虐殺し、都城を破壊した。
1245年、カイホスロー2世が死去すると、国の大官たちは彼の長子イッズッディーン・カイカーウス2世をスルターンに即位させ、その弟ルクヌッディーン・キリジ・アルスラーンとアラーウッディーン・カイクバードに補佐させた。