カザルス音楽祭
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名チェリストで指揮者のカザルスは、スペイン人民政府の熱心な支持者であったので、フランシスコ・フランコ総統によって共和政が倒されると、フランスの寒村プラドに避難し、プラド音楽祭を開催するようになった(こちらは1952年に、パブロ・カザルス音楽祭と改称されている)。
カザルスは、1955年と1956年に、母ピラル・デフィジョー(Pilar Defilló)の郷里を訪ねてプエルトリコへ行き、1957年より同地に永住した。同年、カザルス音楽祭のこけら落としがプエルトリコ大学において行われる。当初はカザルス自身の演奏により、バッハの《無伴奏チェロ組曲第3番ハ長調》の上演が予定されていたが、リハーサル中にカザルスが心臓発作に倒れたため、その計画は見合わされた。カザルスは入院したものの、音楽祭は計画どおり、ルドルフ・ゼルキンの演奏によって実行に移された。
音楽祭が始まった当初は演奏者の大半が、音楽祭のオーケストラによってアメリカ合衆国から雇われた音楽家で占められていた。数少ない例外が、ヘスース・マリーア・サンロマーやヘンリー・ハッチンソン・シニア、フェルナンド・ヴァレンティ、フィゲロア兄弟だった。しかし1970年になるまでに、音楽祭オーケストラの楽団員は、多くがプエルトリコ人で占められるに至った。