カヘティ王国
かつてコーカサス地方に存在した国家
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カヘティ王国(ジョージア語: კახეთის სამეფო、ジョージア語ラテン翻字: Kakhetis Samepo)は、中世後期から近世にかけて、ジョージアの東部に存在した、君主国である。カヘティ地方を中心とし、首都は最初にグレミに、後にテラヴィに置かれた。カヘティ王国は1466年のジョージア王国の崩壊の過程で成立し、いくつかの短い断絶期間を挟みながら、1762年まで存在した。そして1762年、カヘティと隣接するカルトリ王国と、バグラティオニ朝のカヘティ系統のもとで王位継承を通じて統合した(カルトリ=カヘティ王国)。カヘティ王国は、その期間の大部分がペルシアの歴代王朝の属国であり、それ以外の期間は一時的にオスマン帝国の属国でもあった[注釈 2][3]。1747年以降においては、断続的にではあるが独立の度合いが増した時期もあった。
カヘティ王国
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| 1466年–1762年 | |||||||||||
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ヴァフシュティによる18世紀の紋章
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1490年のジョージア解体後におけるカヘティ王国の版図 | |||||||||||
| 地位 | 王国 | ||||||||||
| 首都 |
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| 共通語 | |||||||||||
| 宗教 | |||||||||||
| 統治体制 | 封建制君主制 | ||||||||||
| メペ(王) | |||||||||||
• 1466年–1476年 | ギオルギ1世(初代) | ||||||||||
• 1744年–1762年 | エレクレ2世(最後) | ||||||||||
| 歴史 | |||||||||||
• 建国 | 1466年 | ||||||||||
• カルトリが独立承認 | 1490年 | ||||||||||
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• カルトリとの統合 | 1762年 | ||||||||||
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| 現在 | |||||||||||
カヘティ王国の再興
カヘティ王国の再興は、15世紀半ばから骨肉の争いに巻き込まれていたジョージア王国の分裂への第一歩であった。この分裂は、ジョージア王位を簒奪したギオルギ8世が、1465年に反抗的な臣下であるサムツヘ公クヴァルクヴァレ3世に捕らえられ、バグラト6世に王位を奪われた後に起こった。ギオルギ8世はその後、アラザニ川とイオリ川の流域を中心とするジョージア最東端の地方であり、ギオルギ8世のかつての公領であったカヘティ地方において、独立した統治者として君臨した。そして1476年に没するまで、ある種の「対立王」としてその地に留まった[7]。これらの困難により、領土が縮小したカルトリ王国の王コンスタンティネ2世は、新しい秩序を承認せざるを得なかった。コンスタンティネ2世は、1490年にギオルギ8世の息子アレクサンドレ1世を東のカヘティ王として認め、1491年にはバグラト6世の息子アレクサンドレ2世を西のイメレティ王国の王として承認した。コンスタンティネ2世自身は、カルトリの統治を維持した。このようにして、ジョージア王国は3つに分裂した[8]。
カルトリによる一時的併合
隣接するカルトリ王国に対して数多くの侵略を繰り返していたギオルギ2世の死後、カヘティは弱体化し、カルトリによって併合された。しかし、ギオルギ2世の息子レヴァンは、カルトリに捕らえられるのを防ぐため、9歳のときに秘密裏にカヘティの山岳地帯へと連れて行かれた。サファヴィー朝のシャー・イスマーイール1世がカルトリに侵攻した後、レヴァンを山岳地帯へ連れて行った貴族たちは好機ととらえ、レヴァンをカヘティの王であると宣言した。2年間にわたる戦争の後、カルトリはカヘティに対する支配権を放棄し、カヘティの独立を認めた。
16世紀のカヘティ

他のジョージアの諸国とは異なり、カヘティは当面の間、大規模な外国の侵略や深刻な国内の混乱を免れていた。さらにカヘティには、ギーラーン、シャマヒ、アストラハンを結ぶ重要な「シルクロード」に隣接しているという、他の地域に対する優位性があった。カヘティ政府は「シルクロード」による貿易を保護し、また積極的に参加することで、王国を南コーカサス東部およびペルシアの経済活動と密接に結びつけた。カヘティの肥沃な土地は広範囲に耕作され、グレミ、バザリ、カラガジ、テラヴィといった交易都市にはユダヤ人、アルメニア人、ペルシア人の活気ある居住地が存在したことから、分裂したジョージアの他の地域では見られないほどの繁栄をもたらした。この相対的な安定は、一時期、君主の権力を強化し、王を支持する貴族を増やした[9]。

台頭するオスマン帝国とサファヴィー朝の両帝国による脅威にさらされたカヘティの王たちは、慎重に練られた均衡政策を推し進めた。特に、北コーカサスのイスラム勢力であるタルキ・シャムハル国に対抗するため、同じキリスト教を信仰するモスクワ・ロシアの統治者たちとの同盟を試みた。1555年、アマスィヤで締結されたオスマンとサファヴィーの和平合意により、カヘティはサファヴィー朝の支配圏内に留まることになった。カヘティの王たちは、サファヴィー朝を宗主国として協調の姿勢を示すことにより、依然としてかなりの独立性と安定を維持した。その一方、1589年にアレクサンドレ2世はロシアの皇帝フョードル1世に対して正式に忠誠を誓ったが、この同盟が実際に実行に移されることはなかった。1605年、アレクサンドレ2世の息子であり、イスラム教に改宗したコンスタンティネ1世が、ペルシアの支援を受けてクーデターを起こした。コンスタンティネ1世は父アレクサンドレ2世を暗殺し、王位を強奪した。これにより、カヘティの運命は暗転し始めた。カヘティの人々は父親殺しのコンスタンティネ1世を受け入れることを拒否し、打ち倒した。そのためサファヴィー朝のシャー・アッバース1世は、1605年に反乱軍が推薦したコンスタンティネ1世の甥テイムラズ1世を、不本意ながらも新しい国王として認めざるを得なかった。こうして、サファヴィー朝との衝突の中に置かれた、テイムラズ1世の長く困難な治世(1605年–1648年)が始まった[10]。
ペルシアの覇権

1610年代半ば、シャー・アッバース1世はジョージアをより完全にサファヴィー帝国に組み込もうとする動きを再開し、1614年、1615年、1616年にカヘティを繰り返し侵略した。一連のジョージアの人々による蜂起とペルシアによる報復により、6万から7万人が殺害され、10万人以上のカヘティの農民たちがペルシアに強制移住させられた。カヘティの人口は3分の2にまで減少し、かつて繁栄を極めたグレミやバザリといった都市は、取るに足らない村落へと縮小した。農業は衰退し、商業は完全に停滞した[11]。 1648年までに、テイムラズ1世はついにカヘティから追放された。その後カヘティは、ペルシアのヴァリ(総督)の立場にあったカルトリ王ロストムの支配下に置かれた[12]。しかし、カヘティにおける実権はサファヴィー朝のシャーが任命したペルシア人総督たちが握っていたため、ロストムの支配は名目上のものに過ぎなかった[12]。サファヴィー朝の政府はカヘティへの統制を強め、先住の人々をテュルク系の遊牧民部族に置き換える政策を実施した。同時に、ダゲスタンの山岳民たちがカヘティの国境地帯を攻撃し、植民地化を始めた。

1659年、カヘティの人々はバフトリオニの反乱し、数万人ものトルクメン人をカヘティに入植させようとしたサファヴィー朝の計画を阻止した。それでもなお、カヘティは依然としてペルシアの政治的支配下にあり、蜂起を主導した貴族3人が降伏し、処刑された。数年後、イスラム教に改宗したカルトリの王/ヴァリであるヴァフタング5世は、自身の息子であるアルチル2世をカルトリの王/ヴァリに据える許可を、ペルシアのシャーから得ることに成功した。一時期、東ジョージアの2つの王国は、ヴァフタング5世とアルチル2世のもとで実質的に統合され、その後しばらくは比較的平和な期間が続いた。アルチルは、ペルシアの侵略によって破壊されたグレミに代えて、テラヴィの町をカヘティの首都とし、復興計画の実行に着手した。しかし、この前途有望な状況は長くは続かなかった。アルチルがカヘティで即位したことは、バグラティオニ家の2つの家系、すなわちアルチルが属するムフラニ家と、王位を奪われたテイムラズ1世の系統のカヘティ家という、2つの系統の間の対立の始まりとなった。
1677年から1703年にかけて、バグラティオニ王家はカヘティの統治権を失い、カヘティは再びサファヴィー朝の直接支配下に置かれた[12][13]。カヘティ家は、イスラム教への改宗という代償を払って、1703年にようやく王位を取り戻した。その後は、宗主国であるサファヴィー朝の以降に従って統治を行った。しかし、これはほとんど利益をもたらさず、王国はダゲスタンからの絶え間ない略奪に悩まされ続けた。
1724年から1744年にかけて、カヘティはオスマン帝国とペルシアによって相次いで占領下に置かれた。しかし、オスマン帝国との戦いにおいてカヘティ王テイムラズ2世がペルシアのナーディル・シャーに尽くした功績が認められ、1743年、カヘティがペルシア宮廷に支払っていた重い貢納が免除されることとなった。1744年、忠誠への褒賞として、ナーディル・シャーはテイムラズ2世にカルトリの王位を、その息子エレクレ2世にカヘティの王位を、それぞれ与えた[14]。テイムラズ2世とエレクレ2世は1745年、キリスト教の伝統に則って戴冠式を挙げた。テイムラズ2世とエレクレ2世は、1747年のナーディル・シャー暗殺後にペルシア国内で発生した混乱を利用し、実質的な独立統治者としての地位を確立した。テイムラズ2世とエレクレ2世の統治は国家の安定に貢献し、経済は回復し始めた。ダゲスタンからの攻撃は減少したものの、完全になくなったわけではなかった。1762年1月8日にテイムラズ2世が没すると、エレクレ2世がその後を継ぎ、「カルトリ=カヘティ王国」という形で東ジョージアを単一の国家として統一した[15]。
歴代の王
カヘティ王国の王(メペ)は、15世紀の独立から1762年のカルトリ王国との統合まで、一貫してバグラティオニ朝のカヘティ系統(カヘティ・バグラティオニ家)によって統治された。ただし、度重なるサファヴィー朝(ペルシア)の侵略により、一時的な廃位やペルシア直轄統治などの断絶期間を挟んでいる。
| 名前 | 在位期間 | 備考 |
|---|---|---|
| ギオルギ1世 | 1466年 – 1476年 | 統一ジョージア王国最後の王(ギオルギ8世)。王位を追われた後、最東端のカヘティ地方で独立を宣言し、カヘティ王国の初代となった。 |
| アレクサンドレ1世 | 1476年 – 1511年 | ギオルギ1世の子。モスクワ大公国およびサファヴィー朝との外交関係を樹立。息子のギオルギ2世に暗殺された。 |
| ギオルギ2世 | 1511年 – 1513年 | アレクサンドレ1世の子。「悪王」と称される。父を殺害して王位を簒奪し、後継者と目されていた弟ディミトリの目を潰して追放した。隣国カルトリへの侵略を繰り返したが、捕らえられ獄死。 |
| (カルトリ王国による併合) | 1513年 – 1518年 | ギオルギ2世の死に伴う混乱に乗じ、カルトリ王コンスタンティネ2世の息子ダヴィト10世がカヘティを支配下に置き、カルトリ=カヘティ王を称した。 |
| レヴァン | 1518年 – 1574年 | ギオルギ2世の子。幼少期にカルトリの捕縛から逃れ、貴族の保護下で山岳地帯に匿われた。ペルシアの侵攻による混乱期に王を宣言。シルクロード貿易を保護し、王国に50年以上の繁栄と最盛期をもたらした。 |
| アレクサンドレ2世 | 1574年 – 1601年 | レヴァンの子(父を殺害して王位を得たとする説もある)。オスマン帝国の属国となった。1589年にモスクワのフョードル1世に忠誠を誓い保護関係を結んだが、実質的な進展はなかった。 |
| ダヴィト1世 | 1601年 – 1602年 | アレクサンドレ2世の長男。病弱な父に代わり政権を奪取して即位したが、わずか1年ほどで急死。 |
| アレクサンドレ2世(復位) | 1602年 – 1605年 | ダヴィト1世の急死に伴い再即位。サファヴィー朝の支援を受けた四男コンスタンティネ1世のクーデターによって暗殺された。 |
| コンスタンティネ1世 | 1605年 | アレクサンドレ2世の四男。ペルシア宮廷で育ちイスラム教に改宗。シャー・アッバース1世の命で実父アレクサンドレ2世と兄ギオルギを暗殺して王位を奪った。父親殺しの暴君として民衆の猛反発を受け、即位から数か月で反乱により打倒された。 |
| テイムラズ1世 | 1605年 – 1614年 | ダヴィト1世の子(コンスタンティネ1世の甥)。反乱軍に擁立され即位。アッバース1世によるサファヴィー朝の宗主権強化に激しく抵抗。1614年にペルシア軍の侵攻を受けて追放された。 |
| イエセ(対立王) | 1614年 – 1615年 | イスラム教に改宗したアレクサンドレ2世の孫。ペルシアによって据えられた傀儡の対立王。 |
| テイムラズ1世(2度目の在位) | 1615年 – 1616年 | ペルシアへの大規模な蜂起を主導して復位。しかし翌1616年にアッバース1世による凄惨な報復侵略を受け、再び追放された。カヘティの人口の3分の2が失われる大惨事となる。 |
| (ペルシア直轄統治) | 1616年 – 1623年 | サファヴィー朝が任命したペルシア系総督パイカル・ハンによる支配。 |
| テイムラズ1世(3度目の在位) | 1623年 – 1633年 | カルトリ王国の名将ギオルギ・サアカゼの蜂起に呼応して復位(実際のカヘティ掌握やペルシアの公認を1625年とする説もある)。1625年からはカルトリ王も兼ね、カルトリ=カヘティ王となった。しかしサファヴィー朝の再侵攻により1633年に再度追放。 |
| (ペルシア直轄統治) | 1633年 – 1636年 | サファヴィー朝が任命したペルシア系総督セリム・ハンによる支配。 |
| テイムラズ1世(4度目の在位) | 1636年 – 1648年 | セリム・ハンを破ってカヘティの支配権を奪還(亡命先から戻り再起した1634年を開始とする説もある)。しかし、親ペルシア派のカルトリ王ロストムに敗れ、最終的に亡命を余儀なくされた。 |
| (カルトリ王による名目支配) | 1648年 – 1656年 | ペルシアのヴァリ(総督)を兼ねるカルトリ王ロストムの支配下に置かれたが、実権はペルシア人総督が握った。 |
| (ペルシア直轄統治) | 1656年 – 1664年 | セリム・ハン(再任、1656年–1659年)、ムルタズ・アリ・ハン(1659年–1664年)による直接統治。サファヴィー朝はカヘティの先住民を排除し、テュルク系遊牧民を入植させようとしたが、1659年のバフトリオニの反乱により阻止された。 |
| アルチル2世 | 1664年 – 1675年 | カルトリ王ヴァフタング5世(ムフラニ家系)の息子。ペルシアのシャーの承認を得てイスラム教に改宗。カヘティ王として即位し、破壊されたグレミに代わってテラヴィに遷都し復興を進めた。 |
| エレクレ1世 | 1675年 – 1676年 | テイムラズ1世の孫(カヘティ家系)。王位を主張。改宗を拒んだためペルシア宮廷へ召喚され抑留。 |
| (ペルシア直轄統治) | 1677年 – 1703年 | ペルシアの直轄地となり、親ペルシア派のジョージア人貴族ベジャン・ハン(1677年–1683年)や、ギャンジャのアッバース・コリー・ハーン(1683年–1688年、1695年–1703年)、カルブ・アリー・ハーン(1688年–1694年)らがヴァリ(総督)として統治した。 |
| エレクレ1世(復位) | 1703年 – 1709年 | 最終的にイスラム教への改宗を受け入れ、ペルシア宮廷の意向に従う形で王位を取り戻した。カヘティ王権の復活。 |
| ダヴィト2世 | 1709年 – 1722年 | エレクレ1世の子。エスファハーンのペルシア宮廷で育ち、不在の間は弟のテイムラズ2世らが摂政として統治。レズギ人の絶え間ない略奪に悩まされた。 |
| コンスタンティネ2世 | 1722年 – 1732年 | エレクレ1世の子でダヴィト2世の弟。1723年にペルシア兵を率いてカルトリ王国のトビリシを占領したが、直後に侵攻してきたオスマン帝国軍にトビリシを追われ、最終的にはオスマン属国のカヘティ王として妥協した。レズギ人との戦いで戦死。 |
| テイムラズ2世 | 1732年 – 1744年 | エレクレ1世の子。当初はカヘティのガムゲベリ(摂政)として統治。1736から1738年にかけては一時的にアレクサンドレ3世が対立王として立てられた。ペルシアのナーディル・シャーに協力した功績が認められ、重い貢納を免除された。1744年にカルトリ王へ転じた。 |
| エレクレ2世 | 1744年 – 1762年 | テイムラズ2世の子。父のカルトリ王即位と同時にカヘティ王に任じられた。1745年にキリスト教の伝統に則り戴冠。1747年のナーディル・シャー暗殺後の混乱を利用して事実上の完全独立を達成。1762年の父の死去に伴いカルトリ王位も継承し、カルトリ=カヘティ王国として東ジョージアを統一した。 |