エレクレ2世 (カルトリ=カヘティ王)
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| エレクレ2世 ერეკლე II | |
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エレクレ2世 | |
カルトリ=カヘティ王 | |
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在位期間 1762年1月8日 – 1798年1月11日 | |
| 次代 | ギオルギ12世 |
カヘティ王 | |
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在位期間 1744年 – 1762年 | |
| 先代 | テイムラズ2世 |
| 出生 |
1720年11月7日または1721年10月7日 テラヴィ |
| 死亡 |
1798年1月11日 テラヴィ |
| 埋葬 | スヴェティツホヴェリ大聖堂 |
| 王朝 | バグラティオニ朝 |
| 父親 | テイムラズ2世 |
| 母親 | タマル |
| 信仰 | ジョージア正教会 |
| 親署 |
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エレクレ2世(グルジア語: ერეკლე II、グルジア語ラテン翻字: Erekle II、1720年11月7日または1721年10月7日 – 1798年1月11日[注釈 1])は、バグラティオニ朝のメペ(王)。1744年から1762年までカヘティ王、1762年から1798年までカルトリ=カヘティ王であった。当時のペルシア語の史料ではイラクリー・ハーン (ارکلی خان) として言及され、ロシア語ではイラクリイ (Ираклий) として知られた。愛称のパタラ・カヒ(პატარა კახი、[pʼatʼaɾa kʼaχi]、「カヘティのちびっ子」の意)[2]としても知られる。
1744年、宗主国であるアフシャール朝のナーディル・シャーは忠誠への報酬として、エレクレ2世にカヘティ王国の王位を授けた[3]。その後、エレクレ2世はカルトリ王国の領域を継承して、東ジョージアの統一王国の王となった。没後は息子ギオルギ12世が王となったが、1801年にロシア帝国に併合された。カルトリ=カヘティの最後から2番目の王であることから、エレクレ2世の治世はジョージア王朝の「白鳥の歌」(有終の美)とみなされている[4]。
エレクレ2世は自身の能力に加えて、ナーディル・シャーの死後におけるペルシアの政情不安にも助けられ、事実上の自治権を確立し、3世紀ぶりに東ジョージアを政治的に統一した[5]。エレクレ2世は東ジョージアの政府、経済、軍事の近代化を図った。だが王国の独立は不安定なものであり、南コーカサス東部の一時的な覇権を取り巻く内外の脅威が存在した。このような状況の中で、エレクレ2世は1783年にカルトリ=カヘティ王国を正式にロシア帝国の保護下に置いた(ゲオルギエフスク条約)。しかし、この措置も1795年のペルシアのジョージア侵攻による荒廃を防ぐことはできなかった。エレクレ2世は1798年に崩御し、王位は病弱な息子ギオルギ12世に引き継がれた。
ナーディル・シャーの死とカヘティの治世
エレクレ2世は1720年11月7日(歴史家キリル・トゥマノフによれば1721年10月7日[1])に、カヘティ王国の首都テラヴィで誕生した。エレクレ2世の父親はカヘティ王テイムラズ2世、母親はカルトリ王ヴァフタング6世の娘タマルであった。エレクレ2世の幼少期から10代前半にかけては、オスマン帝国がカヘティを占領していた1732年から1735年の時期と重なる。ナーディル・シャー率いるペルシア軍は、1734年と1735年の2回にわたるカヘティ遠征でオスマン軍を駆逐した。これによりナーディル・シャーは、ジョージアにおけるペルシアの支配権を速やかに回復した。
テイムラズ2世はペルシア側に与し、カヘティを治めるヴァーリ(総督)に任命された。一方で、隣接するカルトリ王国のヴァーリにはキリジ・アリ=ハーンが任命された[3][6]。しかしジョージアの多くの貴族たちはペルシアに従属する体制の受け入れを拒否し、ナーディル・シャーがジョージアの諸州に課した重い貢納に反発して反乱を起こした。それでもなお、テイムラズ2世とエレクレ2世はナーディル・シャーへの忠誠を貫いた。1720年代に失脚したムフラニ家の復活を阻止する目的もあった。当時、テイムラズ2世はムフラニ家と対立しており、カルトリの王位を争う立場であった。
1737年から1739年にかけて、エレクレ2世はペルシアのインド侵攻を支援し、ジョージアの補助部隊を指揮した。この遠征でエレクレ2世は、有能な軍司令官としての評判を得た[7]。その後、エレクレ2世は父テイムラズ2世の副官を務めた。1744年にテイムラズ2世が協議のためペルシアの首都エスファハーンに短期間召集された際、エレクレ2世は摂政を務めた。その間、エレクレ2世はムフラニ家のアルチルによるクーデターの試みを阻止した。またエレクレ2世は、ギヴィ・アミラフヴァリなどペルシアの覇権に反対する貴族たちを鎮圧し、テイムラズ2世による統治を支援した。その褒賞として、1744年にナーディル・シャーはテイムラズ2世にカルトリの王位を、エレクレ2世にカヘティの王位を授けた[8]。またナーディル・シャーは、自身の甥アーディル・シャーと、テイムラズ2世の娘ケテヴァンの結婚を取り決めた[1]。
1747年にナーディル・シャーが暗殺されるまで、カルトリとカヘティの両王国はペルシアへの重い貢納の義務を負い続けた。ナーディル・シャーの死後、テイムラズ2世とエレクレ2世はペルシア国内に生じた政情不安に乗じて独立を主張し、トビリシを含むジョージアの主要拠点すべてからペルシア軍を追放した。テイムラズ2世とエレクレ2世は緊密に連携し、1748年にはアーディル・シャーの弟イブラーヒームの扇動により発生したムフラニ派による新たな反乱を阻止した。テイムラズ2世とエレクレ2世は、ペルシアの軍閥からの攻撃に対して特に脆弱であったアゼルバイジャンのハーンたちと対ペルシア同盟を結び、南コーカサス東部におけるエレクレ2世の覇権を認めることに同意した。1749年、エレクレ2世はイェレヴァンを占領し、1751年6月にはキルフブラフの戦いで、ペルシアの王位請求者でありかつての同盟者であったアーザード・ハーン率いる大軍を破った[9]。この結果、エレクレ2世はアラス川以南の情勢変化をほぼ無視できる立場となった[9]。1752年、テイムラズ2世とエレクレ2世はロシア帝国に使節団を派遣し、3,000人のロシア軍部隊あるいはチェルケス人傭兵を雇うための補助金を要請した。この目的は、ペルシアに侵攻して親ロシア政権を樹立することであった。しかし、ロシア帝国の宮廷はヨーロッパ情勢に忙殺されていたため、使節団は成果を上げることができなかった[1]。
カルトリとカヘティの王

同時期、アフシャール朝の残存勢力は弱体化しており、もはやマシュハドはペルシア政府の首都として機能しないことが明らかであった[9]。1762年、テイムラズ2世はサンクトペテルブルク宮廷への外交任務中に崩御した。エレクレ2世は父テイムラズ2世の後を継いでカルトリ王に即位し、3世紀ぶりに東ジョージアを政治的に統一した[5]。1762年から1763年にかけて、ペルシアのカリーム・ハーンによるアゼルバイジャン遠征が行われた。エレクレ2世はこの際に、カリーム・ハーンによる宗主権を形式的に承認し、ゴルジェスタンのヴァーリ(総督)として叙任された。この称号はサファヴィー朝の伝統的な役職であったが、この当時はすでに「空虚な敬称」となっていた[9]。
ロシア帝国との同盟
外交政策において、エレクレ2世はジョージアの存続を守るために、信頼できる宗主国を見つけることに主眼を置いていた。そしてエレクレ2世は、ロシア帝国を宗主国として選んだ。ロシア帝国が正教国であったことも理由の一つであるが、イギリスの歴史学者デイヴィッド・マーシャル・ラングによると、ジョージアが近代国家として発展するためのモデルとして考えていたヨーロッパとの懸け橋になることをロシア帝国に期待していたことも理由の一つであった[10]。しかし、エレクレ2世が考えていたロシア帝国との協力関係は期待外れに終わった。第一次露土戦争ではロシア帝国とともにオスマン帝国と戦ったが、オスマン帝国の支配下にあったジョージア南部の領土奪還にはつながらなかった。その理由は、ジョージアに駐留していたロシア軍の司令官たちが非常に高圧的であり、しばしば裏切り行為に及ぶことが多かったためである[10]。また、エカチェリーナ2世がコーカサス戦線を軍事作戦の単なる二次的な戦域としてしか扱っていなかったことも理由の一つに挙げられる。それでも、エレクレ2世はロシア帝国とのより強固な同盟関係を模索し続けた。その直接的な動機は、カリーム・ハーンがジョージアを再びペルシアの勢力圏に引き戻そうとしたことであった。1779年のカリーム・ハーンの死により、ペルシアは再び混乱に陥ったことで、エレクレ2世はこれらの脅威から一時的に解放された[1]。
1783年、ロシア帝国によるクリミア・ハン国の併合により、コーカサス地方がエカチェリーナ2世の関心領域に入った。1783年のゲオルギエフスク条約により、エレクレ2世はついにロシア帝国からの安全保障を獲得し、カルトリ=カヘティ王国はロシア帝国の保護国となった。第二次露土戦争の間、トビリシに拠点を置く小規模なロシア軍部隊がジョージアから撤退したため、エレクレ2世はペルシアからの新たな脅威に単独で立ち向かうことになった。1790年、エレクレ2世は西ジョージアの王国・公国(イメレティ、サメグレロ、グリア)と戦略的同盟条約を締結した(イベリアの王国と公国に関する条約)。
ガージャール朝の侵攻
ガージャール朝のシャー・アーガー・モハンマドは、1794年までにペルシア高原中央部の大部分を支配下に置いた。アーガー・モハンマドは、コーカサスを支配領域に含めたペルシア帝国の復活を目指していた。1795年、アーガー・モハンマドはコーカサス南東部の大部分を迅速に再征服した後、エレクレ2世に対してペルシアの宗主権を再び認めるよう要求した。その見返りとして、アーガー・モハンマドはエレクレ2世をヴァーリ(総督)として承認することを約束した。しかし、エレクレ2世はこれを拒否した。1795年9月、3万5000人のペルシア軍がジョージアに侵攻した。首都トビリシを防衛するためのクルツァニシの戦いの戦いではエレクレ2世も前衛部隊として加わったが、ジョージア軍5000人の小規模な軍勢はほぼ壊滅し、トビリシは占領され徹底的に略奪・破壊された。エレクレ2世は戦場と都市に留まろうとしたが、最終的には側近によって退避させられた。ペルシアの侵攻はジョージアに深刻な打撃を与え、そこから回復することはできなかった。決定的な戦いで支援を受けられずに敗北したにもかかわらず、エレクレ2世は依然としてロシア帝国の遅々たる支援に頼らざるを得なかった。ようやく1796年、エカチェリーナ2世はロシア遠征軍をペルシアに派遣した(ロシア・ペルシア戦争)。エレクレ2世はロシア遠征軍とともに戦った。しかし同年、エカチェリーナ2世が死去したことで、コーカサスにおけるロシア帝国の政策は急激に転換し、後継者のパーヴェル1世は再びジョージアからすべてのロシア軍を撤退させた。アーガー・モハンマドは、ジョージアがロシア帝国と同盟を結んだことを罰するため、2度目の遠征を開始した。しかしアーガー・モハンマドが1797年に暗殺されたことで、カルトリ=カヘティ王国はさらなる荒廃を免れた[1]。
1796年の早春、エレクレ2世は息子アレクサンドレと長孫ダヴィトをギャンジャ・ハン国に派遣し、ジャヴァド・ハーンの懲罰に向かわせた。当時、首都ギャンジャは、カラバフ・ハン国のイブラヒム・ハリル・ハーンによって包囲されていた。ジョージア軍の進軍を知ったイブラヒム・ハリル・ハーンは、ジャヴァド・ハーンと和解交渉を行った。イブラヒム・ハリル・ハーンは、ジャヴァド・ハーンに1万ルーブルの賠償金を支払わせ、息子と妹を人質として差し出させた後、カラバフの要塞に撤退した。ジョージア軍がギャンジャに到着すると都市の包囲網を敷いた。その後、エレクレ2世と息子ギオルギ、孫イオアネが率いる軍が増援として到着した。ジョージア軍による報復を恐れたジャヴァド・ハーンは和平を申し出て、支配権の証である「都市の鍵」を送り届けた。エレクレ2世は400人のジョージア人捕虜の返還こそ受け入れたものの、ジャヴァド・ハーンが行った「首に剣を巻いての降伏」(無条件服従の誓い)は聞き入れず、ジャヴァド・ハーンに対して年間1万5000マナトの貢納金を課した[11]。
硬貨
数十年にわたるエレクレ2世の「奇妙なほどに曖昧な立場」は、エレクレ2世が領内で発行した硬貨にも現れている[12]。例えばエレクレ2世が発行した銀貨にはイスマーイール3世の名が刻まれ、あるいはザンド朝様式の銘文「ヤー・カリーム」(یا کریم、「おお、慈悲深き者よ」)が刻まれていた。これは、イスラム教における神(アッラー)の99の美名の一つである「アル=カリーム」(الکریم、「寛大なる者」)を呼びかける宗教的な言葉であったが、実際にはカリーム・ハーンを指していた[12]。このような硬貨は、カリーム・ハーンの死から約20年後の1799年までトビリシで鋳造されていた[12]。同時期にトビリシで鋳造された銅貨には、3種類の図像⸺キリスト教的な図像、ジョージア的な図像、そして双頭の鷲といったロシア帝国的な図像⸺が刻まれていた[12]。カリーム・ハーンの名が刻まれた銀貨はペルシアとの貿易に使用可能であった。一方、ジョージアの国内での使用のみを目的として鋳造された銅貨は、エレクレ2世のロシア帝国に対する政治的姿勢を反映していた[12]。
宮廷、政策、晩年

エレクレ2世は宮廷において、ある程度のペルシア風の壮麗さを維持しつつ、「ヨーロッパ化」という野心的な計画を開始した。これはジョージアの知識人エリートたちによって支持された。しかし、ジョージアはヨーロッパから物理的に孤立していたこと、そして不安定な独立を守るためにあらゆる利用可能な資源を費やさなければならなかったことから、大きな成果を上げるには至らなかった。エレクレ2世はヨーロッパ列強の支持を得て、西洋の科学者や技術者を誘致し、ジョージアに最新の軍事技術や産業技術の恩恵をもたらそうと尽力した。エレクレ2世は、同時代の中央ヨーロッパの啓蒙専制君主たちと類似した統治を進めた。エレクレ2世は行政権、立法権、司法権を行使し、政府の各組織の活動を綿密に監督した。内政におけるエレクレ2世の主要な目的は、貴族たちの権力を縮小することで政府の中央集権化をさらに進めることであった。この目的のため、エレクレ2世は地方行政において、自らの代理人となる統治エリート層を創設し、利己的な貴族領主に置き換えようとした。同時に、エレクレ2世は封建的な主従関係にある農民たちを保護・奨励することで、国防に必要な軍事力を確保しようとした。これは、専制的な貴族層の抵抗を打破して王権を強化すると同時に、「レキアノバ」として知られるダゲスタンからの絶え間ない略奪攻撃から国を守るという、二重の目的を持っていた。イギリスの歴史学者デイヴィッド・マーシャル・ラングは、「国民を守るための彼の警戒心には際限がなかった。遠征中は夜通し敵の出現を警戒し、平時には国事や宗教の務めに人生を費やし、睡眠にはわずか数時間しか割かなかった」と述べている[10]。
祖国の存続はロシア帝国の保護によってのみ保証されるとの確信を持ったまま、エレクレ2世は1798年に崩御した。エレクレ2世の後を継いだのは、健康状態が不安定で、統治能力に制約のあった息子ギオルギ12世であった。そしてギオルギ12世の死後の1801年、ロシア皇帝アレクサンドル1世はカルトリ=カヘティ王国をロシア帝国に併合した。これにより、ジョージアの独立とバグラティオニ朝による千年の王国統治は終わりを迎えた。
改革
エレクレ2世は治世中、多方面にわたる改革を実行した。1749年にトビリシでの印刷事業を再開させると、自ら印刷所を設立した。エレクレ2世は正典である典礼文書の印刷を通じて、言語の標準化を目指した。エレクレ2世の統治下では40以上の書目が印刷されたが、そのほとんどが典礼に関するものであり、最大で1,000部が発行された[13]。
内政面では、エレクレ2世は王権を強化し、ロシア帝国の方式に沿って統治機構を組織した。エレクレ2世はまた、絶え間ない戦争や社会的要因で荒廃・放棄されたカルトリとカヘティの地に、再び人を住まわせる再入植の取り組みを開始した。この目的を達成するため、エレクレ2世は「ムクレレビ」と呼ばれる役人を任命した[14]。ムクレレビたちは、ナヒチェヴァンやカラバフに逃れていた農奴を、時には暴力を用いてでも元の土地へ連れ戻す任務を負っていた。一方で、免税措置を設けることで新たな移住者の誘致も図った。農奴制に関しては、農奴が不満を訴えるのを抑制するために暴力を用いることを認めていた。しかし一方で、農奴が逃亡した場合には地主の責任を問い、農奴に性的虐待を加えた地主には厳しい罰を科すなどの統制も行った[15]。エレクレ2世は、貴族層を王権の規律に従わせることに苦心した[16]。エレクレ2世は1754年と1770年の2度にわたり、土地を伴わない農奴の売買を禁止した。またエレクレ2世、カトリコス総主教、そしてダルバジ(王宮会議)は共同で、王領地の戦争捕虜や奴隷を自由農民にすると宣言した。一部の教会農民や退役兵士も自由民となったため、エレクレ2世の統治下では自由民の存在がより一般的になったが、農民の大部分は依然として農奴の身分に留まっていた[15]。
エレクレ2世はトゥシェティで新種の穀物を導入し、農業の近代化を推し進めた。その結果、穀物価格は下落して飢饉が収束し、農民は果実やクルミによって納税することが可能となった。産業面では、砂糖、ガラス、布地、兵器を生産する工場が設立された。また、銀の産出量は年間500キログラムに達した[17]。鉱業の振興のため、エレクレ2世は息子レヴァンのルートを通じて技術的に優れたギリシャ人鉱夫を招き、アフタラの金銀鉱床の開発に従事させた[16]。商制面では、商人の財産を保護し、王権による没収ができないようにする相続法が可決された。さらに、関税は2.5パーセントに設定され、1760年代には歳入が増加した。司法・行政面ではムディヴァンベグタ・ササマルトロ(大法官裁判所)が組織されたほか、国王の諮問機関であるダルバジ(王宮会議)が常設の最高裁判所および枢密院として機能した。外交部門では、キリスト教徒とイスラム教徒から各1人、計2人の外務大臣が置かれた。また治安維持のために警察組織も創設された。教育面では、トビリシとテラヴィの由緒ある大学が再興され、ドイツ人のハルトヴィヒ・バックマイスターらが教鞭を執った[16]。
エレクレ2世による中央集権化政策や、地主による農民の搾取は、しばしば民衆の反乱を引き起こした。例えば、エリオザシヴィリ家は当時の慣習や法を上回り、自身の領地の農奴たちに対して年間50日を超える労働を強いた。この搾取に耐えかねた農奴たちは反乱を起こして一族を襲撃し、教会を焼き払い、ワイン樽を略奪した。1773年にはプシャヴィの部族民が領主の城を破壊して、領主を人質に取った。1777年には、エレクレ2世の父テイムラズ2世が廃止したクサニ公国を再興しようとしたが、この計画に対してクサニの農民たちが反対し、蜂起した。また1780年、エレクレ2世は富裕層に対し、国家へ3トマンの貸付を強制する公債制度を導入したが、これも強い反発を招いた[17]。
1770年代、エレクレ2世はロシア帝国から顧問を招き、訓練マニュアルや階級制度を導入して軍隊を改革した[18]。エレクレ2世は、ヨーロッパのモデルに準拠した近衛連隊を創設した[16]。軍には恒久的に給与が支払われていたものの、戦場での略奪行為は依然として容認されていた。トビリシには火薬工場が存在したが、その設備は老朽化した状態であった。1774年、エレクレ2世は各世帯から男性1名を、自己負担で年間1か月間従軍させる徴兵制度を導入した。市民社会の発展は遅れており、1770年には黒死病の流行により4,000人の死者が発生した[19]。
レズギ人による絶え間ない襲撃(レキアノバ)と、農民たちが徴兵に応じることに消極的であったため、エレクレ2世は外国人傭兵の採用に大きく依存した。特にチェルケス人はレズギ人よりも礼儀正しく理性的であり、ジョージア人により親近感を抱いていたことから、チェルケス人の氏族の傭兵が多く雇われた[20]。
家族

エレクレ2世は生涯で3度結婚している。最初の結婚については諸説あるが、オルベリアニ家のケテヴァン、あるいはムヘイゼ家のケテヴァンと結婚したとされる。近年の有力な説によれば、オルベリアニ家の令嬢とは実際の婚姻が成立する前に離絶(婚約破棄)しており、実際に最初の妃となったのはムヘイゼ家の令嬢であったとされるが、ムヘイゼ家の令嬢は1744年に没した。エレクレ2世は最初の結婚で子供2人をもうけた。
- ヴァフタング(1738年または1742年 – 1756年または1760年2月1日) - アラグヴィ公(1747年–1756年)。ムフラニ公コンスタンティネ3世の娘ケテヴァン(1744年–1808年)と結婚。
- ルスダン(1744年以前生、夭逝)
1745年、エレクレ2世はアバシゼ家の娘アナと再婚し、子供3人をもうけた。
- ギオルギ(1746年11月10日 – 1800年12月28日) - カルトリ=カヘティ王(在位: 1798年–1800年)。最初にアンドロニカシヴィリ家の娘ケテヴァンと結婚、次にツィツィシヴィリ家の娘マリアムと結婚。
- タマル(1747年7月12日 – 1786年8月4日) - ダヴィト・オルベリアニと結婚。
- 無名の娘 - 夭逝
1750年、エレクレ2世はダディアニ家の娘ダレジャン(1734年7月20日–1808年11月8日)と、3度目の結婚をした。子供23人をもうけた。
- ソロモン(1765年没)
- エレネ(1753年 – 1786年6月17日) - 最初にイメレティ王子アルチルと結婚、次にザカリア・アンドロニカシヴィリと結婚。
- マリアム(1755年 – 1828年11月3日) - ダヴィト・ツィツィシヴィリ(1749年–1792年)と結婚。
- ソフィア(1756年生、夭逝)
- レヴァン(1756年2月2日 – 1781年2月5日) - ニノ・アンドロニカシヴィリ(1766年–1816年)と結婚。
- イオアネ(1759年生、夭逝)
- イウロン(1760年6月4日 – 1816年10月23日) - サロメ・アミラフヴァリ(1766年–1827年)と結婚。
- ヴァフタング=ハルマスハン(1761年6月22日 – 1814年10月28日) - 最初にツルキゼ家の娘と結婚、次にマリアム・アンドロニカシヴィリ(1769年–1837年)と結婚。
- サロメ(1761年生、夭逝)
- ベリ(1761年または1762年生、夭逝)
- テイムラズ(1762年または1763年1月8日 – 1827年12月21日) - ジョージアのカトリコス総主教アントン2世。
- アナスタシア(1763年11月3日 – 1838年5月17日) - 1797年にクサニ公レヴァズと結婚。
- ケテヴァン(1764年 – 1840年7月5日) - ムフラニ公イオアネと結婚。
- ソスラン=ダヴィト(1764年頃 – 1767年)
- ミリアン(1767年8月19日 – 1834年10月15日) - マリア・ヒルコワ(1788年–1815年)と結婚。
- ホレシャン(1768年生、夭逝)
- アレクサンドレ(1770年 – 1844年) - 最初にニノ・カバルディアと結婚、次にマリアム・メリク=アガマリアン(1808年–1882年)と結婚。
- ルアルサブ(1772年生、夭逝)
- エカテリネ(1774年 – 1818年) - 1793年にギオルギ・チョロカシヴィリと結婚。
- テクレ(1776年 – 1846年3月11日) - ヴァフタング・オルベリアニ(1769年–1812年3月1日)と結婚。
- パルナオズ(1777年2月14日 – 1852年3月30日) - クサニ公女アナ(1777年–1850年)と結婚。
- アルチル(1780年生、夭逝)
- アスラマズ=ハン(1782年生、夭逝)