カメラマン (雑誌)

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『カメラマン』は、1936年10月から1940年11月まで名古屋市で刊行された月刊の写真雑誌である[1]。発行元はカメラマン社で、地方都市のアマチュア写真家による同人誌として出発したが、1930年代後半の名古屋における新興写真、実験的写真、前衛写真の作品発表と議論の場の一つとなった[2][3]

1930年代半ばの名古屋では写真文化が急速に拡大しており、竹葉丈は、市内の写真材料商が1925年の9店、1930年の16店から、『カメラマン』創刊時の1936年10月には61店に達していたことを指摘している[2]。こうした状況のなかで創刊された『カメラマン』は、地方都市の写真雑誌としては意欲的な媒体と位置づけられている[2]

創刊と編集体制

『カメラマン』は1936年10月、成田春陽、並木圭夫、永田二龍、紅村清彦の4名を同人として創刊された[4]。1937年11月には三國庄次郎、高田皆義、小此木光也、佐溝勢光が同人に加わり、以後は永田二龍が主幹を務めた[4]

編集方針と読者層

創刊号では、写真を近代生活にふさわしい趣味とみなし、その普及を目指す方針が掲げられた[4]。写真趣味の流行を背景として刊行された創刊号は5,000部が短期間で完売し、増刷されたという[5]。このことは、『カメラマン』が少数の前衛写真家だけでなく、より広いアマチュア写真愛好家層を読者としていたことを示している[5]

掲載内容

『カメラマン』には、名古屋を中心とする写真家たちの作品や評論が掲載された[6]。創刊号には海部誠也「野間にて」、松浦幸陽「波切風景」、佐溝勢光「秋の風」が掲載されている[6]。その後も、今井信興「網による女」、成田春陽「燈台のある風景」、稲垣泰三「立ち話」、下郷羊雄「空漠の風景」「オブジェとルミエール」「物体に依る夢の仮作」、田島二男「風のオブジェ」など、新興写真から前衛写真に至る多様な作例が誌面に現れた[6]

1939年2月号(第29号)には「前衛写真再検討座談会」が掲載され、下郷羊雄山中散生坂田稔らが、シュルレアリスムとアブストラクト、前衛写真の方法と方向性について議論した[7][3][8]。この座談会は、名古屋における前衛写真の自己定義の場であるとともに、同年に山本悍右も含めて参加したナゴヤ・フォトアバンガルドの成立前後の理論的背景とも重なる[8][9]。そのため『カメラマン』は、個々の作品の掲載媒体であるだけでなく、名古屋の前衛写真圏が共有した問題意識や人脈が交差した場としても位置づけられる[8][9]

なお、竹葉丈は、後藤敬一郎が『カメラマン』1939年8月号に「写真芸術の問題」と題する文章を発表し、同誌の編集にも参画していたことに触れており、『カメラマン』が名古屋のシュルレアリスム写真や前衛写真をめぐる議論の媒介でもあったことを示している[8]

名古屋の前衛写真との関係

東京都写真美術館は、1930年代末の名古屋の前衛写真を、評論家・詩人・写真家の協働によって形成された動向として説明している[9]。そのなかで『カメラマン』は、名古屋のアマチュア写真家による同人誌として、前衛写真を再検討する座談会を組織した媒体の一つとして位置づけられている[9]

竹葉丈もまた、坂田稔が『カメラアート』や『フォトタイムス』などの全国誌に加え、『カメラマン』誌上でも中心的な発言を行ったことを指摘している[8]。この雑誌を介した議論のネットワークは、1939年に成立したナゴヤ・フォトアバンガルドの周辺環境とも重なっており、名古屋の前衛写真圏を理解するうえでも重要である[8][9]。東京都写真美術館はさらに、『カメラマン』の座談会参加者が福岡を訪れ、ソシエテ・イルフのメンバーにも影響を与えたとしている[9]

終刊

脚注

参考文献

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