カール・エルンスト・フォン・ビロン

From Wikipedia, the free encyclopedia

カール・エルンスト・フォン・ビロン、1790年頃

カール・エルンスト・フォン・ビロン:Karl Ernst von Biron :Карл Эрнст Бирон, 1728年10月11日[ユリウス暦9月30日] - 1801年10月16日[ユリウス暦10月4日])は、ロシア帝国の貴族で陸軍少将。

1638年ポーランド貴族身分を得たバルト・ドイツ人の家系ビロン家の出身。エルンスト・ヨハン・フォン・ビロンベニグナ・フォン・トロタの間の次男。両親はロシア女帝アンナ・イオアノヴナの寵臣であり、1730年に伯爵位を、1737年にはクールラント公爵領を与えられた。

その息子であるカール・エルンストも1732年わずか4歳でプレオブラジェンスキー近衛連隊英語版の陸軍大尉に任じられたうえ、1740年にはアレクサンドル・ネフスキー勲章及び聖アンドレイ勲章英語版を授与された。

しかしアンナ女帝の死後、両親は失脚してシベリアへ追放され、1741年カール・エルンストもエリザヴェータ・ペトロヴナ新女帝の命令でヤロスラヴリに流刑となった。抑留中、彼は2度脱獄を試みたが失敗に終わった。1762年ピョートル3世が即位すると両親は許されてクールラント公爵に復帰、ミタウへの帰還が実現する。カール・エルンストも同皇帝の短い治世のあいだに陸軍少将に取り立てられ、ヴォログダに駐屯する歩兵連隊の連隊長に任命された。

1763年、彼はフリーメーソンサンクトペテルブルク・ロッジの共同設立メンバーに名を連ねた。女帝エカテリーナ2世の治世初期、カール・エルンストはミタウの両親の宮廷に戻って公爵家子息としての生活を謳歌し、この時期にオランダ、イギリス、フランスそしてイタリアをめぐる長期旅行にも赴いた。パリ滞在中の1768年4月、彼は約束手形詐欺師及びスリ集団のリーダーとなった容疑で逮捕され、しばらくバスティーユ牢獄に収監されている。

1771年には兄ペーター・フォン・ビロンが相続する予定のクールラント公国の継承権放棄手続きを行ったが、この放棄手続きは後に反故になっている。1772年父が死ぬと、シュレージエン地方の自由シュタンデスヘル領ドイツ語版だったグロース・ヴァルテンブルク英語版を相続し、彼の直系子孫はビロン=ヴァルテンベルク侯の爵位を得て、1945年までこの所領を保持した[1]

子女

外部リンク

引用・脚注

Related Articles

Wikiwand AI