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カール=ハインツ・ホフマン

東ドイツの軍人、政治家 From Wikipedia, the free encyclopedia

カール=ハインツ・ホフマンKarl-Heinz Hoffmann, 1910年11月28日 - 1985年12月2日)は、ドイツ民主共和国(東ドイツ)の軍人政治家ドイツ社会主義統一党(SED)政治局員、国家人民軍の参謀総長、国防相を務め、東ドイツにおける軍部の実力者であった。地上軍の最終階級は上級大将

概要 生年月日, 出生地 ...
ハインツ・ホフマン
Heinz Hoffmann
ハインツ・ホフマンの肖像写真(1982年)
生年月日 1910年11月28日
出生地  ドイツ帝国
バーデン大公国の旗 バーデン大公国
マンハイム
没年月日 (1985-12-02) 1985年12月2日(75歳没)
死没地 東ドイツの旗 東ドイツ
シュトラウスベルク
出身校 国際レーニン学校
リャザン士官学校
所属政党 ドイツ共産党
ドイツ社会主義統一党
称号 ドイツ民主共和国英雄
カール・マルクス勲章
配偶者 クラヴディヤ・イワノヴナ・キニャゼヴァ (1940年 - 1952年)
ハリーナ (1954年 - 1964年)
ギゼラ・ザウアー (1964年 - 1985年)
内閣 第3次グローテヴォール内閣
第4次グローテヴォール内閣
第1次シュトフ内閣
ジンダーマン内閣
第2次シュトフ内閣
第3次シュトフ内閣
在任期間 1960年7月14日 - 1985年12月2日
大統領
国家評議会議長
ヴィルヘルム・ピーク
ヴァルター・ウルブリヒト
ヴィリー・シュトフ
エーリッヒ・ホーネッカー
在任期間 1960年7月14日 - 1985年12月2日
国防評議会議長 ヴァルター・ウルブリヒト
ヴィリー・シュトフ
エーリッヒ・ホーネッカー
国家人民軍
第2代 参謀本部総長
在任期間 1958年3月1日 - 1960年7月1日
国防大臣 ヴィリー・シュトフ
兵営人民警察
初代 長官
在任期間 1952年7月1日 - 1955年5月14日
大統領 ヴィルヘルム・ピーク
在任期間 1950年 - 1958年
人民議会議長 ヨハネス・ディークマン
ゲラルト・ゲッティング
ホルスト・ジンダーマン
その他の職歴
ドイツ社会主義統一党政治局員
1975年 - 1985年
ドイツ社会主義統一党中央委員
1952年 - 1975年
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軍歴 1936年 - 1937年
(赤軍)
1936年 - 1940年
(国際旅団)
1944年
(NKVD)
1952年 - 1985年
(兵営人民警察・地上軍)
最終階級

中尉(赤軍)

上級大将
(国家人民軍)
概要 軍歴, 所属組織 ...
軍歴
1969年9月のホフマンの肖像写真
所属組織 赤軍
国際旅団
内務人民委員部
兵営人民警察
国家人民軍地上軍
軍歴 1936年 - 1937年
(赤軍)
1936年 - 1940年
(国際旅団)
1944年
(NKVD)
1952年 - 1985年
(兵営人民警察・地上軍)
最終階級

中尉(赤軍)

上級大将
(国家人民軍)
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生涯

生い立ち

1910年バーデン大公国マンハイムで、労働者階級の家庭に生まれた。マンハイムの義務教育修了後は、1925年から1930年にかけて、マンハイムエンジン工場で機械工として研修を受けた。1926年から1930年にかけてはドイツ共産主義青年連盟ドイツ語版Kommunistischer Jugendverband Deutschlands)で活動し、1930年にはドイツ共産党に入党している。この間にデモ参加と暴力沙汰により、短期間の拘留を経験している。

亡命・ソ連での活動

1933年ナチ党政権を掌握したため、共産主義者であったホフマンは弾圧を逃れるため地下に潜伏する。しかしゲシュタポにより手配され、1935年スイスに亡命し、同年にはチェコスロバキアを経由してソ連に渡り、モスクワ国際レーニン学校に通った。1936年から1937年にかけてリャザンの士官学校に入校し、中尉に任官。1936年から1938年にかけては、第2国際旅団ハンス・バイムラー大隊英語版の政治将校兼砲兵隊員としてスペイン内戦に従軍する。「ハインツ・ロス」というコードネームを使用し、1937年から1940年にかけては、第11国際旅団に配属された。指揮官が負傷した後、彼は大隊の指揮をとった。ホフマン自身もクイジョルナ英語版の南で敵の歩兵の銃撃を受け、足と腹に重傷を負った。ホフマンはマドリードで数ヶ月入院し、その後フランスオー・ボンヌ英語版の診療所に移り、1938年から1939年まで療養した。1939年4月から1940年11月までは、ソ連で負傷の回復に努めた。1941年3月から、モスクワの北西にあるプシュキノ英語版コミンテルンの特別講習に参加した。広範囲にわたる社会科学の勉強に加え、軍事科目も教わった。ソ連は戦後に向けて、ホフマンのようなソ連で教育を受けた党人や将校を、主に東ヨーロッパのドイツ占領下のヨーロッパ地域に投入しようと計画していたとされる。ホフマンらの受けた軍事訓練には、他のドイツ人亡命者とともに、後方地域での破壊工作の訓練も含まれていた。1944年までソ連内務人民委員部(NKVD)の職員として活動し、ドイツの捕虜収容所に勤務することになった。また、パルチザンの教練を担当し、独ソ戦勃発後は赤軍に入り、ドイツ軍と戦った。1942年から1944年まで、ホフマンは反ファシスト学校で教鞭をとり、最初は ゴーリキー州(現在のロシアのニジニ・ノヴゴロド州)で、後にクラスノゴルスクで教壇に立った。この時、自由ドイツ国民委員会にも所属している。1945年にはモスクワ近郊の党学校第12校の校長となった。

東ドイツでの経歴

1946年1月、ホフマンはソ連占領地域東ベルリンに戻り、ドイツ社会主義統一党(SED)に入党する。ヴィルヘルム・ピークおよびヴァルター・ウルブリヒトの個人的な協力者となり、1949年からドイツ民主共和国(東ドイツ)における軍隊の編成を担当する。同年、ドイツ人民警察の副総局長、内務副大臣および政治総本部長を務め、翌年1950年には教育本部長に任命された。1952年7月1日には兵営人民警察(Kasernierte Volkspolizei)長官となり、10月1日には中将(Generalleutnant)に叙された。政治職も務め、1950年から亡くなるまで人民議会議員を務め、1952年には党中央委員に選出されている。

1955年から1957年にかけてソ連のK.ヴォロシーロフ名称参謀アカデミーに留学していたため、新国家人民軍創設の際には東ドイツにいなかった。しかし帰国後の1957年から1960年まで国防副大臣を務め、1958年3月に副大臣職が廃止されると、国防次官兼国家人民軍参謀総長に就任した。

1959年大将(Generaloberst)に昇進し、翌1960年ヴィリー・シュトフの後任として東ドイツ国防相ドイツ語版に就任し、同時に国防評議会議員ドイツ語版に任命された。1961年には上級大将(Armeegeneral)に昇進し、1969年にソ連軍参謀本部軍事アカデミー附属高等学術課程を修了。1973年には党政治局員に選出された。

死去

ハインツ・ホフマンの墓

ホフマンは長らく軍および党の最高幹部として君臨し、国家人民軍最高位の実力者であり続けたが、1985年12月2日に75歳で死去した。当局は大動脈瘤による失血死と発表したが、東ドイツ国民の間では、数日前に行われた彼の75歳の誕生日の祝賀会でアルコール中毒になって死去したとの噂が流れた。この推定死因については、肯定も否定もされていない。

ホフマンの死を悼み、死後の1986年2月第9装甲師団に対し、名誉称号として「ハインツ・ホフマン」の名が冠された。

ベルリンの壁と逃亡者射殺について

1961年10月6日以降のホフマンは、国境警備隊に対して、逃亡者(ベルリンの壁を乗り越えようとした東ドイツ市民など)を拘束できなかった場合は、警告と警告射撃の後、直ちに銃器を使用することを義務づけた。とある映像に収められたスピーチの中で、ホフマンは次のように述べた。

「我々の国境を尊重しない者は、銃弾を浴びることになるだろう[1]。」

家族

ホフマンは、1940年にペレデルキノに住んでいたときに知り合ったクラヴディヤ・イワノヴナ・クニャゼワと結婚した。クニャゼワは1952年に死去したが、二人の息子ユーリとアレクサンダーをもうけた。アレクサンダーは後に北ベトナム航空隊の中尉として将校訓練を終えた直後に、交通事故で亡くなっている。

クニャゼワが死去して2年後に、ホフマンは公立病院に勤務する看護婦のハリーナと結婚。ハリーナとの間には2人の子どもに恵まれたが1964年に離婚し、国防大臣首席秘書官のギゼラ・ザウアー二等軍曹と結婚した。ギゼラとの間には3人の子供に恵まれ、1985年に亡くなるまで結婚生活を続けた。

脚注

参考文献

関連項目

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