カー・ハーヴィー
From Wikipedia, the free encyclopedia
初代ブリストル伯爵ジョン・ハーヴィーと1人目の妻イザベラ(1670年1月20日 – 1693年3月7日、第3代準男爵ロバート・カー(英語版)の娘)の息子として、1691年9月17日にロンドンで生まれ、21日に洗礼を受けた[1][4]。家庭教師の教育を受けた後[2]、1708年6月6日にケンブリッジ大学クレア・カレッジに入学、1710年にM.A.の学位を修得した[1]。1711年から1713年までグランドツアーに出て、フランス、フランドル、オランダ、ドイツ、イタリアを旅した[2]。道中のフランドルで名将マールバラ公爵に会ったほか、後にジョージ1世としてイギリス国王に即位するハノーファー選帝侯ゲオルク・ルートヴィヒにも謁見した[5]。
1713年イギリス総選挙でベリー・セント・エドマンズ選挙区(英語版)から出馬して、31票(得票数1位)を得て庶民院議員に当選した[6]。父が影響力を有する選挙区であり、1712年2月に補欠選挙が行われたときはグランドツアーで海外に滞在していたうえ未成年(21歳未満)だったため出馬できなかった[6]。父はせめてカーの帰国まで補欠選挙を遅滞させようとしたが、サミュエル・バッテリー(英語版)の選挙活動が始まってしまったため、この策略を諦めた[6]。その後、1713年9月に総選挙が行われたときにはカーが成人していたが、このときにもまだ帰国しておらず、父が代わって選挙活動をして、ジャーミン・デイヴァース(英語版)らトーリー党候補を破って当選させた[6]。カーはその後、1713年12月に帰国した[2]。
庶民院ではホイッグ党に属し、1714年3月にリチャード・スティール(英語版)の議会追放への反対票を投じ、同年6月に教会分裂阻止法案(英語版)の反対票の集計係(teller)を務めた[2]。ハノーヴァー朝になると1714年に王太子(プリンス・オブ・ウェールズ)ジョージ・オーガスタス(後の国王ジョージ2世)の寝室侍従(gentleman of the bedchamber)に任命され[2]、1717年から1720年まで王太子が野党に回っていたときは王太子に従った[7]。1715年イギリス総選挙にて無投票で再選したが、選挙活動をおろそかにした結果、父の影響力が健在だったにもかかわらず1722年イギリス総選挙で15票(得票数3位)しか得られずに落選した[3]。
人物
ケンブリッジ大学では勉学に勤しみ、グランドツアーに出たときも家庭教師から「まるでサー・フィリップ・シドニーを手本としたようだ」と賞賛された[2]。しかし1714年に寝室侍従に任命された後、典型的な廷臣、粋人になり、お金を湯水のように使い、賭博に興じたうえ、南海会社の株式への投機に加わり、1720年の南海泡沫事件で多額の損害を被った[2]。
父の2人目の妻(すなわち、カーの継母)は1722年にカーが落選したとき、カーを「名声においても財産においても破滅している」と形容した[7]。
ルイーザ・ステュアート(英語版)は1830年代にカーがホレス・ウォルポールの本当の父であると主張したが、『オックスフォード英国人名事典』は同時代の証拠がないうえ、おそらくステュアートのウォルポールに対する敵意に由来する主張であると判断し[5]、『英国議会史(英語版)』は「典拠の怪しい説」としたうえ、(ホレス・ウォルポールの兄の息子にあたる)第3代オーフォード伯爵の本当の父に関する噂が曲げられる形で生じた説であるとした[7]。
出典
- 1 2 3 4 5 Cokayne, George Edward; Gibbs, Vicary, eds. (1912). Complete peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain and the United Kingdom, extant, extinct or dormant (Bass to Canning) (英語). Vol. 2 (2nd ed.). London: The St. Catherine Press, Ltd. pp. 323–324.
- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 Hayton, D. W. (2002). “HERVEY, Hon. Carr (1691-1723).”. In Hayton, David; Cruickshanks, Eveline; Handley, Stuart (eds.). The House of Commons 1690-1715 (英語). The History of Parliament Trust. 2026年1月7日閲覧.
- 1 2 Sedgwick, Romney R. (1970). “Bury St. Edmunds”. In Sedgwick, Romney (ed.). The House of Commons 1715-1754 (英語). The History of Parliament Trust. 2026年1月7日閲覧.
- ↑ “Carr HERVEY (HRVY710C)”. A Cambridge Alumni Database (英語). University of Cambridge.
- 1 2 Carter, Philip (10 January 2013) [23 September 2004]. “Hervey, John, first earl of Bristol”. Oxford Dictionary of National Biography (英語) (online ed.). Oxford University Press. doi:10.1093/ref:odnb/13117. (要購読、またはイギリス公立図書館への会員加入。)
- 1 2 3 4 Hayton, D. W. (2002). “Bury St. Edmunds”. In Hayton, David; Cruickshanks, Eveline; Handley, Stuart (eds.). The House of Commons 1690-1715 (英語). The History of Parliament Trust. 2026年1月7日閲覧.
- 1 2 3 Sedgwick, Romney R. (1970). “HERVEY, Carr, Lord Hervey (1691-1723), of Ickworth, Suff.”. In Sedgwick, Romney (ed.). The House of Commons 1715-1754 (英語). The History of Parliament Trust. 2026年1月7日閲覧.
| グレートブリテン議会(英語版) | ||
|---|---|---|
| 先代 オーブリー・ポーター(英語版) サミュエル・バッテリー(英語版) |
庶民院議員(ベリー・セント・エドマンズ選挙区(英語版)選出) 1713年 – 1722年 同職:オーブリー・ポーター(英語版) 1713年 – 1717年 ジェームズ・レノルズ(英語版) 1717年 – 1722年 |
次代 ジェームズ・レノルズ(英語版) ジャーミン・デイヴァース(英語版) |
