キュタヒヤ県
トルコの県
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キュタヒヤ県(キュタヒヤけん、トルコ語: Kütahya ili)は、トルコ西部、エーゲ海地方の県。時計回りに北からブルサ、ビレジク、東にエスキシェヒル、アフィヨン、南にウシャク、西にマニサ、バルケスィルと接している。県都はキュタヒヤ。キュタヒア県とも。
歴史
初期青銅器時代
キュタヒヤの歴史は紀元前3000年まで遡るが、その正確な設立日は不明である。古代の史料によれば、この都市の名称はコティアエオン(Kotiaeon)、コティアエウム(Cotiaeum)、コティ(Koti)などと記録されている。
後期青銅器時代
後期青銅器時代、この地域はやがてヒッタイト帝国(紀元前1320年頃)の支配下に入った。
鉄器時代
この地域に最初に定住したのはフリギア人である。紀元前1200年代にアナトリアに到来したフリギア人は、ヒッタイト王国の領土に進入し、政府を組織した。
紀元前676年、キンメリア人がフリギア王ミダス3世を破り、キュタヒヤとその周辺を支配下に置いた。
アリュアッテスがリュディア王であった時代に、リュディア人がキメリア人の支配権を奪った。紀元前546年には、ペルシャがリュディア軍を破りアナトリアに侵攻した。紀元前334年、ビガ川付近でペルシャを破ったアレクサンドロス大王がこの地域の支配を確立した。紀元前323年の大王の死後、キュタヒヤとその周辺は将軍アンティゴノス1世に引き継がれた。紀元前133年、ローマ帝国の統治下に入り、後に司教座が置かれる中心地となった。
1078年、ルーム・セルジューク朝の建国者であるスライマーン・イブン・クタルミシュがキュタヒヤを占領した。1097年には十字軍による攻撃を受けたが、クルチ・アルスラーン2世が失地とともにキュタヒヤを奪還した。しかし、キリジ・アルスラーン2世の死後の王位継承争いに乗じたビザンツ帝国によって再び奪われた。その後、カイクバード1世の治世にセルジューク朝の領土となった[1][2]。
1277年、ジャーミヤン君主国のカイクスルー2世は、娘のデヴレト・ハトゥンをオスマン帝国のムラト1世の息子、バヤジット1世(イルディリム・バヤジット)に嫁がせた。その際の持参金の一部として、キュタヒヤとその周辺はオスマン帝国に譲渡された。しかし、1402年にバヤジット1世がアンカラの戦いでティムールに敗れると、キュタヒヤはティムールの手に落ちた。ティムールはこの地を再びジャーミヤン君主国のヤクプ2世 (ジャーミヤン朝)に返還した。その後、1429年にキュタヒヤは正式にオスマン帝国に組み込まれ、サンジャクの首府となった[3]。
下位自治体
キュタヒヤ県には13の下位自治体がある。
- キュタヒヤ(Kütahya)
- アルトゥンタシュ(Altıntaş)
- アスラナパ(Aslanapa)
- チャヴダルヒサール(Çavdarhisar)
- ドマニッチ(Domaniç)
- ドゥムルプナール(Dumlupınar)
- エメット(Emet)
- ゲディズ(Gediz)
- ヒサルジュク(Hisarcık)
- パザルラル(Pazarlar)
- スィマヴ(Simav)
- シャプハネ(Şaphane)
- タヴシャンル(Tavşanlı)
名所
キュタヒヤは陶器の町として有名であり、また近くには温泉がわいている。その他にも多くのモスクがあり、そのほかにはキュタヒヤ城が有名である。

