キリアック・コスタンディ
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キリアック・コンスタンティノヴィッチ・コスタンディ(ウクライナ語: Киріак Костянтинович Костанді, ラテン文字転写: Kyriak Kostyantynovych Kostandi、ロシア語: Кириак Константинович Костанди、1852年10月3日 - 1921年10月31日)は現ウクライナ生まれのギリシャ系の画家である。おもにオデッサで活動した。
オデッサ近郊の海岸沿いの村、Nowa Dofiniwkaでギリシャ人の商人か漁師の息子に生まれた。9歳の時に父親が亡くなり、家の仕事を手伝った。1874年にオデッサの絵画学校を卒業し、1882年までにはサンクトペテルブルクの帝国芸術アカデミーでミハイル・コンスタンティノヴィッチ・クロトに学び、1884年までサンクトペテルブルクで活動した。その後、オデッサに戻り、以降オデッサで活動し、オデッサの絵画学校で教えた[1]。1897年に移動美術展協会(通称「移動派」)の展覧会に出展し[2]、「移動派」の写実的なスタイルの普及に貢献した。「南ロシア芸術家協会(Товарищество южнорусских художников)」を設立メンバーになり、1902年から1920年までは協会の会長を務めた[3]。1907年にサンクトペテルブルクの芸術アカデミーの正会員に選ばれた。
1898年ころに創設されたオデッサ美術館の創設に貢献し、1917年まで館長を務めた。1917年からオデッサ市立博物館の館長を務めた[1]。1900年のパリ万国博覧会の展覧会に出展し賞を得た。
1905年のロシア第一革命の後、美術学校の学生の全員退学などの動きがあった。1910年代には作品の制作は減り、教育に時間を費やし、生活費の不足を補うために個人教授もした。共産主義政権の樹立後は古代遺跡保護委員会の仕事や美術学校や美術館の再編の仕事をした。1920年に重病になるが貧弱な環境で教師を務めた。1921年にオデッサで69歳で亡くなった。