ミハイル・コンスタンティノヴィッチ・クロト

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生誕 (1833-01-11) 1833年1月11日
ロシア、サンクトペテルブルク
死没 1902年5月29日(1902-05-29)(69歳没)
ロシア、サンクトペテルブルク
ミハイル・コンスタンティノヴィチ・クロト
Михаил Константинович Клодт
イワン・クラムスコイによる肖像画 (1871)
生誕 (1833-01-11) 1833年1月11日
ロシア、サンクトペテルブルク
死没 1902年5月29日(1902-05-29)(69歳没)
ロシア、サンクトペテルブルク
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ミハイル・コンスタンティノヴィチ・クロト・フォン・ユルゲンスブルクロシア語: Михаил Константинович Клодт фон Юргенсбург, ラテン文字転写: Mikhail Konstantinovich Clodt von Jürgensburg1833年1月11日 - 1902年5月29日)は、ロシアの画家である[1][2][3]。風景画を描き移動派(巡回美術展協会)の創設メンバーの一人となった。

サンクトペテルブルクで生まれた。父親のコンスタンティン・カルロヴィッチ・クロト(Konstantin Karlovitj Clodt von Jürgensburg: 1807-1879)は軍人でアマチュア版画家であった人物で[4]、叔父の、ペーター・クロト・フォン・ユルゲンスブルクは有名な彫刻家になった人物である[1]。いとこのミハイル・ペトロヴィッチ・クロト(1835-1914)も風俗画家として知られている。妹のエリザベート・イェルネフェルト(Elisabeth Järnefelt: 1839-1929)は、フィンランド軍人と結婚し、画家のエーロ・ヤルネフェルトらの母親になり、フィンランドの文学サロンを主催したことで知られている。

鉱山学校で学び、その後1851年から1858年まで、サンクトペテルブルクの帝国美術アカデミーで絵画を学び[3]、アカデミーで金メダルを受賞して、フランス、スイス、イタリアで3年間絵画を学ぶ奨学金を受けた。フランスやイタリアの美術学校で学ぶがロシアの美術学校より優れていないと感じて1年ほどでロシアに帰国し、残りの奨学金でロシア国内を旅して風景画を描いた[2]

1861年にアカデミーの会員の称号を授与された。

1870年に移動派(巡回美術展協会)の創設メンバーの一人となった。1873年から1886年までサンクトペテルブルクの帝国美術アカデミーの教授を務めた。1879年にアルヒープ・クインジと意見対立し移動派から離れた[2]

1833年にサンクトペテルブルクで亡くなった。

作品

脚注

参考文献

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