キリル・レモフ
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モスクワで生まれた。父親はドイツ出身の音楽家であった[1]。キリル・レモフは1851年から1856年まで、モスクワ絵画・彫刻・建築学校でエゴール・ヴァシリエフ(Егор Васильев)に学んだ。1858年にサンクトペテルブルクの帝国芸術アカデミーに入学し、ピョートル・バシンやアレクセイ・タラソヴィチ・マルコフにアカデミック美術のスタイルの歴史画を学んだ。
5年間の在学の後、1863年にイワン・クラムスコイ(1837-1887)らと美術アカデミーに抗議してコンテストへの参加を辞退する「14人の反乱(Бунт четырнадцати)」の参加者になり、2等クラスの芸術家の学位でアカデミーを退学した[2]。イワン・クラムスコイが率いるサンクトペテルブルク芸術家協会(Санкт-Петербургская артельхудожников)に加わった。5年後、アカデミーのコンクールに出場して1等クラスの芸術家の学位を得た[2]。貴族の子弟の美術教師として生計を立て、モスクワ郊外の住宅地ホヴリノにスタジオを建てて夏には絵を描いて過ごした[3]。
1870年にグリゴリー・ミャソエドフらと「移動派」(巡回美術展協会)を設立した。作品が出展期日にまにあわず協会から一時的に追放されたが、1879年に再入会し、最終的に理事、会計係も務めた[2]。
サンクトペテルブルク芸術家協会のメンバーを続け、将来の皇帝アレクサンドル3世の子供たちの絵の個人教師を務め、皇帝の末娘オルガ大公女は、芸術への興味を生涯、持ち続けることになった[1]。1893年の帝国アカデミーの改革でアカデミーの正会員に選ばれ、終生年金を受け取った。1909年までロシア美術館の学芸員も務めた[2]。