ギオルギ・ニコラゼ
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ギオルギ・ニコラゼ | |
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| გიორგი ნიკოლაძე | |
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1926年のニコラゼ | |
| 生誕 |
1888年8月11日 ロシア帝国、グルジア、ディディ・ジハイシ |
| 死没 |
1931年2月5日(42歳没)あるいは9月22日(43歳没) ソヴィエト連邦、グルジア・ソヴィエト社会主義共和国、トビリシ |
| 墓地 | ディデュベ・パンテオン |
| 出身校 | パリ大学 (PhD) |
| 博士論文 | Sur les systèmes continus de figures géométriques (1928) |
| 博士課程指導教員 | エリ・カルタン |
| 配偶者 | ジョルジェッタ・ガンバシゼ |
| 署名 | |
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| 補足 | |
| プロジェクト:人物伝 | |
ギオルギ・ニコラゼ[1](ジョージア語: გიორგი ნიკოლაძე、露: Георгий Николаевич Николадзе、1888年8月11日 - 1931年2月5日 [2]あるいは9月22日[3])は、グルジア(ジョージア)の数学者、冶金学者、翻訳家、体操選手、登山家。トビリシ国立大学で教授を務めた。ジョージア数学連合の共同創立者であった。ジョージア初の体操の団体であるシェヴァルデニを設立した。
1888年8月、ロシア帝国下のグルジアのディディ・ジハイシで、作家のニコ・ニコラゼと生物学者のオルガ・グラミシヴィリ=ニコラゼの間に生まれた。ジョージアの貴族ニコラゼ家の一員である。1898年から1906年までトビリシ第一古典ギムナジアで学んだ。チェコ人のアントン・ルケシュからソコル体操を教わった。1913年までサンクトペテルブルク国立技術大学に通い、冶金学で技術工学のディプロマを取得した[4][3][5]。その後、トゥーラ冶金工場やドネツク冶金工場で1918年まで働いた[4][6]。
1918年から1928年まで、トビリシ国立大学で講師、教授として働いた。1928年、幾何学の論文を提出して[7]、ソルボンヌ大学理学部で博士号を取得した[3][5]。ニコラゼはジョージアの最初のソコル支持者で、1918年にジョージア初の体操団体であるシェヴァルデニ (შევარდენი) を設立した[8]。1920年、アルチル・ハラゼとニコロズ・ムスヘリシヴィリとともに「ロシア-グルジア・グルジア-ロシア数学用語辞書」を出版した[3][5]。翻訳計画を通じて、ニコラゼはジョージア語における一貫した専門用語の作成を目指した[9]。
ハラゼとムスヘリシヴィリ、ラズマゼとともに、1923年にグルジア数学連合を創立した[10][11]。また、ニコラゼは子供のころからアルピニズムに興味を持っていた[12]。1923年夏、5000メートル級のカズベク山の登頂に成功した[13]。
ニコラゼはジョルジェッタ・ガンバシゼと結婚した[14]。1931年、トビリシで没した[3]。
功績
ニコラゼは、ソヴィエト連邦外ではあまり知られていないが、ティフリスの数学部門の創立者の一人で、カフカスの技術・科学発展における先駆者と評価されている[9]。ゼスタポニのギオルギ・ニコラゼ記念広場にはニコラゼの胸像が設置されている[15]。
2016年、ジョージアの歴史家パアタ・ナツヴリシヴィリは、1900年パリオリンピック男子ボートで金メダルを獲得した「正体不明のフランス人少年」はニコラゼであるという仮説を提唱した。ナツヴリシヴィリによれば、ニコラゼの姉は1980年代にインタヴューで弟がフランスのボートレースで優勝した、オリンピックの時期に家族でヨーロッパ旅行をしたと語っている[16][17]。しかし国際オリンピック史学会の歴史家には状況証拠からニコラゼが本当に無名の少年であったか疑わしいとする者もいる。歴史家ビル・マロンは、この無名の少年はニコラゼに「少し」似ていただけだと述べた[18]。