クラックマンナン (競走馬)
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| クラックマンナン | |
|---|---|
|
『審驥輯』第1輯(1932年)より | |
| 欧字表記 | Clackmannan[1][2] |
| 品種 | サラブレッド[2] |
| 性別 | 牡[1][2] |
| 毛色 | 鹿毛[1][2] |
| 生誕 | 1919年[1][2] |
| 死没 | 1939年5月5日[3] |
| 父 | Lomond[1][2] |
| 母 | Pretty Polly[1][2] |
| 母の父 | Gallinule[2] |
| 生国 | イギリス[2] |
| 生産者 | ジャイルズ・ローダー少佐[1] |
| 競走成績 | |
| 生涯成績 |
43戦8勝[4] 平地:32戦7勝 障害:11戦1勝 |
| 獲得賞金 | 2,807英ポンド(1着賞金)[4] |
| 繁殖成績 | |
| タイトル | 日首位種牡馬(1933年)[5] |
クラックマンナン[注 1][6](Clackmannan)はイギリス生産の競走馬、種牡馬である[2]。名牝プリティーポリーの第8仔として産まれ、現役時代には平地及び障害競走に出走し、43戦8勝の成績を挙げた。
引退後は、種牡馬として帝国競馬協会によって日本に輸入され、複数の帝室御賞典優勝馬を送り出すなど成功を収めた。1933年にはリーディングサイアーを獲得している。
誕生
1919年イギリスで誕生[2]。生産者のジャイルズ・ハロルド・ローダー[1]は、1914年に叔父のユースタス・ローダーからプリティーポリーの生産牧場であったエアフィールド・ロッジ(Eyrefield Lodge、アイルランドのキルデア県)を相続し、1920年の英ダービー馬スパイオンコップを送り出した人物である[7]。
父ローモンドはデスモンド[注 2]を父に、セントサイモンを祖父に持つが、自身は1911年のニューステークス[10]とジムクラックステークス[11]や1913年のトライアルステークス[12]に勝った程度で、種牡馬としても1925年[注 3]のランキングで29位の成績であった[注 4][13]。
一方、母のプリティーポリーは、1904年に英国牝馬クラシック三冠を達成[13]。セプターと並び名牝と評された馬であった[14]。プリティーポリーは1907年から1924年にかけて10頭の産駒を産んでおり[15]、クラックマンナンはその第8仔に当たる[14]。
競走馬・種牡馬時代
現役時代は平地と障害の両方に出走し、43戦8勝の成績を収め、1着賞金2,807ポンドを獲得した[4]。8歳(1926年)の春まで出走した後、帝国競馬協会の委嘱を受けた南澤時義、林田寅次郎によって4,000ポンドで購入され[注 5][4][13]、7月12日[注 6]には客船に積み込まれ日本に輸出された[13][16]。協会は同年から日本の馬匹改良のためサラブレッド種牡馬の輸入を行っており、クラックマンナンはその事業第1号であった[4]。同馬は9月5日に横浜に到着[16]。協会から農林省に寄贈されると、繋養先となる北海道の日高種馬牧場に送られた[4]。
日高種馬牧場では民間から人気を集め[17]、1927年から1932年までの数字で国有牝馬35頭、民有牝馬330頭に種付を行った[18]。初年度産駒は1931年の春季競馬でデビュー[19]。6頭[注 7]が出走して計10勝すると、同年の秋季競馬には春季デビューの6頭を含む14頭が出走し、全部で34勝を挙げた[19]。生涯275頭の産駒からは[17]、ミラクルユートピア、クラツクアスト、フクボシ、クラツクミンテン、マツチレース、ロビンオーの帝室御賞典優勝馬や、オトコヤマ、ホンイチを出すなど、種牡馬として成功を収めた[20]。小田切平和[注 8]によれば、産駒は中距離得意が大部分で[22]、障害競走で力を発揮したものも多かったという[23]。1933年にはリーディングサイアーを獲得している[5]。
1935年、原因不明の跛行の症状が見られたため診察したところ、大動脈瘤による血行障害が判明[24]。『競馬年鑑』昭和11年版では、「今年の種付は勿論不能となり將來も回復至難で殆ど廢馬と見られるに至つた」とあるが[24]、その後も種牡馬を続けたようで1940年には後継種牡馬の1頭であるクラオーが誕生している[25]。農林省の『國有輕種種牡馬名簿』によると種牡馬としての繋養期間は「昭和一四・五」(1939年5月)まで[3]、死亡日は「昭和一四・五・五斃死」(1939年5月5日)と記録されている[3]。
特徴・評価

輸入時の評価は高く、『護蹄』第7巻第9号では、イギリスの一流種牡馬となれば100万円でも手放さない中で、プリティーポリー産駒を4,000ポンドで輸入できたことは大成功であったと評している[13]。また、『審驥輯』でも、「父母共に系統優良にして特にその母は英國競馬界は愚か世界的に聞えたる逸物にして此の如き母より出でたる仔を日本に輸入し得たる事は日本の誇りとも稱し得可き最初のものと云ひ得可けん」と述べられている[26]。
体高5尺3寸7分、胸囲6尺1寸3分、管囲6寸3分[18]。前駆は申し分ないと評価されたが、斜尻の特徴を持っており、産駒にもそれが受け継がれていた[26]。河辺虚仙[注 9]は、同馬の尻は斜めに下がり過ぎとするも、母馬から譲り受けた特徴であるため「心配する程の事ではないと思ふ」と述べている[28]。また、『審驥輯』も次のように述べ、斜尻はむしろ同馬の特点として誇るべきものではないかと評している[26]。
而して本馬を一見するに前軀に於ては寸分申分なく臀部の稍斜下せるか如く見ゆるは素人の打つ否點なるべきも斯は恐らく母の直傳によるものと見得べく而して腰角より臀端に至る間の長大なる事は此を代償して餘りあるべきを以て其の斜下は該馬の價値に關係する物にあらず寧ろ特點として誇るべきにあらずやと考ふ
—「クラックマンナン號」『審驥輯』第1輯、審驥社
競走成績
以下の情報は『社団法人帝国競馬協会事業概要』(1931年)に基づく[4]。
| 年 | 馬齢 | 成績 | 1着賞金(ポンド) | ||
|---|---|---|---|---|---|
| 平地 | 障害 | 平地 | 障害 | ||
| 1921 | 3 | 5戦2勝 | - | 1,318 | |
| 1922 | 4 | 7戦1勝 | - | 692 | |
| 1923 | 5 | 10戦2勝 | - | 266 | |
| 1924 | 6 | 3戦0勝 | 7戦0勝 | - | |
| 1925 | 7 | 7戦2勝 | 3戦1勝 | 267 | 264 |
| 1926 | 8 | - | 1戦0勝 | - | |
| 計 | 32戦7勝 | 11戦1勝 | 2,543 | 264 | |