クロード・デルヴァンクール
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外交官のピエール・デルヴァンクールを父に、マルグリート・フレーを母にパリに生まれる。
1906年よりパリ音楽院に学び、当初はレオン・ボエルマンに、次いでアンリ・ビュッセルの指導を受け、さらに対位法とフーガをジョルジュ・コサードに、作曲法をシャルル=マリー・ヴィドールに師事した。1911年にローマ大賞において3位(Premier-Second Grand Prix)に入賞し、次いで1913年にはカンタータ《ヤニッツァ(Yanitza)》という作品でリリ・ブーランジェと共にローマ大賞グランプリ(Premier-Premier Grand Prix)を共同受賞した。
第1次世界大戦の勃発によってローマ留学が打ち切られると、徴兵され、1915年に重傷を負った。1919年よりローマ留学を再開させる。1926年にリュドヴィク・パーンの後任オルガニストとしてモンマルトル聖心教会に勤めた。1932年にヴェルサイユ音楽院の院長に任命され、1940年のアンリ・ラボーの辞任に伴い、1941年よりパリ音楽院の院長に就任した[1]。
フランス国時代にデルヴァンクールは、ヴィシー政権の人種法をパリ音楽院に適用して、ユダヤ系の教授や学生を閉め出した[2]。しかし、「パリ音楽院学生オーケストラ(Orchestre des Cadets du Conservatoire)」を設立したことにより、長年にわたって60名以上の学生のドイツ行きと強制労働を防いだ。また、 マリー=ルイーズ・ボエルマンやジャック・シャイー、ロジェ・デゾルミエール、イレーネ・ヨアヒムといった音楽家も参加したレジスタンス団体「音楽家の国民前線(フランス語: Front National des Musiciens)」においても活動している。そのためゲシュタポの脅迫を受け、ナチス・ドイツによるフランス占領が終わるまでに辞職に追い込まれた。
1954年に自動車事故によりイタリアに客死した。
