クロード・ドビュッシーの墓
From Wikipedia, the free encyclopedia
| クロード・ドビュッシーの墓 | |
|---|---|
|
| |
| ジャンル | トンボー |
| 作曲者 | ポール・デュカス 、マヌエル・デ・ファリャ 、フローラン・シュミットら10人 |
クロード・ドビュッシーの墓(Le Tombeau de Claude Debussy)は、フランスの作曲家クロード・ドビュッシーの没後2年を経た1920年にパリの音楽雑誌『ルヴュ・ミュジカル』(La Revue musicale)が刊行したドビュッシー追悼特集号の付録として出版された楽譜集。
末期がんとの闘病の末、1918年3月25日にドビュッシーは、享年55歳で息を引き取った。しかし当時は第1次世界大戦の戦時下であって、葬儀も簡素なものにとどまり、少ない参列者に見守られながらペール・ラシェーズ墓地にひっそり葬られ、とうてい大作曲家の葬儀とは気づかれないほどのものだった[1]:6。同年11月に戦争が終結すると、翌1919年3月、ドビュッシーの遺骸は市内のパッシー墓地に改葬され、平和が戻ったパリでは独立音楽協会 (la Société musicale indépendante)と国民音楽協会(Société Nationale de Musique)が相次いで追悼コンサートを催すなど、ようやくドビュッシーの業績を偲び、追悼する機運が熟してきた[1]:6。こうしてドビュッシーの没後2年を経た1920年、同年11月に創刊したばかりの音楽評論誌『ルヴュ・ミュジカル』[2]:230は、その第2号(1920年12月発行)[2]:230としてドビュッシー追悼のための特集号(Numéro spécial consacré à Debussy[3])[4]を企画し、執筆依頼を受けた評論家や友人が回想や論考を寄せた。執筆依頼を受けた顔ぶれには、デ・ファリャ (スペイン)やカゼッラ (イタリア)も含まれており、ドビュッシーが国内外に及ぼした影響を国際的な視野から検証しようとするアプローチを打ち出すものだった。寄稿者の顔ぶれはアンドレ・スアレス、アルフレッド・コルトー、エミール・ヴュイエルモーズ、デジレ=エミール・アンゲルブレシュトといった、生前のドビュッシーに親しく接し、その作品をよく知る人々の名が並んだ[5]。
両大戦間期のフランスでの時代意識では、1870年以降からその時点までの約半世紀を同時代と意識するのが通例であり[2]:230 、第1次世界大戦後に盛んになった約半世紀の時代の音楽史の本質を巡る議論の中では、ドビュッシーが同時代の起点であり、到達点であるとする論調が打ち出され、そこではオペラ『ペレアスとメリザンド』がしばしば特権視された[2]:230。『ルヴュ・ミュジカル』ドビュッシー追悼のための特集号の巻頭20ページ余を占めたスアレスの論考もまた、1870年から現在に至るフランス音楽の同時代の中心にドビュッシーを据えるものだった[2]:230。この号には、特集と同じく編集長の音楽学者アンリ・プリュニエールの企画により、10人の作曲家が依頼を受けて寄せた楽曲を収めた『クロード・ドビュッシーの墓』と題された楽譜集が附録として添付された[3]。
ここで「墓」と訳される原語はトンボー ( Tombeau )であり、17〜18世紀のフランス・バロック音楽で広くみられた楽曲形式で、貴顕や著名な音楽家の死去に際して、その死を悼むために作られた器楽曲のことで、Tombeau de ~(~の墓)という定型的なタイトルが与えられるのが常であった[6]。この楽曲形式はバロック時代の後、長く忘れられていたが、20世紀の初頭、フランス・バロック音楽の再評価の機運に乗って復活し、広く知られたものではラヴェルのピアノ独奏のための組曲『クープランの墓』が挙げられるだろう[6]。もっともラヴェルのクープランの墓は、そのタイトルにもかかわらず、組曲を構成する個々の楽曲は、第1次世界大戦で戦没したラヴェルの知人・友人たちに捧げられているのに対し、この『クロード・ドビュッシーの墓』は紛れもなくドビュッシー追悼のためにささげられている[6]。しかし、同時に、若い時代からつきあいやすい人物ではなかったドビュッシーと、作曲家たちとの微妙な関係も透けてみえる[7]:4。
作曲家たちが寄せた楽曲は新曲であったり既存曲のアレンジであったり様々だったが、いずれも亡きドビュッシーに独自のスタイルで敬意を表しつつ、ドビュッシーの美学も反映し、同時代の音楽的な「タイムカプセル」とでもいうべきものをつくりだした[8]。