クン・テムル

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クン・テムルモンゴル語: Гүнтөмөр/Kün temürᠭᠦᠩ ᠲᠡᠮᠦᠷ)は、モンゴル帝国の第21代皇帝(ハーン)。モンゴル年代記黄金史綱』ではトゴーン(Toγoγan、『恒河の流れ』ではコケ・テムル(Köke temürとも表記される。

在位 1399年 - 1402年
死去 1402年
家名 ボルジギン氏アリクブケ家
概要 クン・テムル Гүнтөмөрᠭᠦᠩ ᠲᠡᠮᠦᠷ, 在位 ...
クン・テムル
Гүнтөмөр
ᠭᠦᠩ ᠲᠡᠮᠦᠷ
モンゴル帝国第21代皇帝(ハーン
在位 1399年 - 1402年

出生 1377年[注釈 1]
死去 1402年
家名 ボルジギン氏アリクブケ家
父親 エルベク(諸説あり)
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また、モンゴル年代記以外では漢文史料の『明実録』で坤帖木児ティムール朝で編纂されたペルシア語史料ではکن تیمور(Kun tīmūr)と表記される。

生涯

クン・テムルの出自について、『蒙古源流』を始めとするモンゴル年代記は先代のエルベク・ハーンの子とし[注釈 2]、ティムール朝で編纂されたペルシア語史料はアリクブケ家の人間であると記す。但し『蒙古源流』が伝えるクン・テムル前後の系図は信憑性が低いため、クン・テムルがエルベクの息子であることを疑問視する説もある[1]。多くの学者はクン・テムルをアリクブケ家の子孫と見ている。

モンゴル年代記によると、卯年1399年)に先代ハーンであるエルベクが殺害された後、ハーン位に即いたという[注釈 3]

1400年建文2年)には燕王朱棣(後の永楽帝)が靖難の変の最中、「韃靼可汗クン・テムル(坤帖木児)」と「オイラト(瓦剌)王モンケ・テムル(猛哥帖木児)」に使者を派遣した[2]。オイラト王モンケ・テムルの出自については諸説あるが、モンゴル年代記において先代のエルベク・ハーンを弑逆したオゲチ・ハシハであるという説がある[1]

モンゴル年代記によると、午年1402年)にクン・テムルは亡くなった。モンゴル年代記に記述はないが、明朝の記録によると同年に鬼力赤(オルク・テムル・ハーン)がハーンに即位している[注釈 4]

大元と韃靼

『明史』巻327列伝215外国8「韃靼」には以下のような記述がある。

而敵自脱古思帖木児後、部帥紛拏、五伝至坤帖木児、咸被弑、不復知帝号。有鬼力赤者簒立、称可汗、去国号、遂称韃靼云。 (しかして敵は、トグス・テムルより後部族の統率者間に紛争があり、クン・テムルに至るまで五代の首領は皆殺されて、またその帝号は知られない。その後、鬼力赤という者があって、位を奪って立ってハーンと称したが、彼は[大元という]国号を使わず、遂に韃靼と称するようになったと言われる。)『明史』巻327列伝215外国8「韃靼」[注釈 5]

この記述を基にクン・テムル・ハーンの死後、オルク・テムル・ハーン(鬼力赤)が「大元」から「タタール(韃靼)」に国名を変更したと説明されることもある。しかし、モンゴル側では引き続き自らをモンゴルと自称し続けており、エセン・ハーンダヤン・ハーンは「大元のハーン」を自称している[注釈 6]ことから、『明史』のこのような記述は編纂者による創作に過ぎないと考えられる[3]

系図

モンゴル帝国の北元時代の系図

脚注

参考資料

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