グレイ・オウル
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グレイ・オウル | |
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ユースフ・カーシュ撮影(1936年) | |
| 生誕 |
1888年9月18日 |
| 死没 |
1938年4月13日(49歳没) |
| 国籍 |
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| 職業 | 著作家、保護活動家、講演者、猟師 |
| 活動期間 | 1929年 – 1938年 |
| 配偶者 | アンジェル・エグウナ(1910年)、フローレンス・ホームズ(1917年)、ジェルトルード・バーナード(アナハレオ、1926年)、イボンヌ・ペリエ(1936年) |
グレイ・オウル(Grey Owl、1888年9月18日 - 1938年4月13日)は、カナダを活動拠点としたイギリス出身のネイチャーライティング作家・自然保護活動家・講演者である。本名はアーチボルド・スタンスフェルド・ベラニー(Archibald Stansfeld Belaney)。オジブウェー語の名称ワ・シャ・クォン・アシン(Wa-sha-quon-asin、「夜に飛ぶ者」の意)としても知られる。
1906年にカナダへ渡り、オジブウェーの人々の生活様式を学ぶ中で、スコットランド人の父とアパッチの母を持つ先住民の混血であると自称し「グレイ・オウル」の名を名乗った[1]。
著作・講演・映像作品を通じて1930年代のカナダおよびイギリスにおいて自然保護の必要性を訴え、当時のカナダで最も著名な作家・保護活動家の一人と評された[2]。
1938年の死の直後、カナダの新聞 North Bay Nugget がベラニーの真の素性を暴露し、彼が先住民ではなくイングランド生まれのイギリス人であったことを報道した[3]。
生い立ち(イングランド時代)
アーチボルド・スタンスフェルド・ベラニーは1888年9月18日、イングランドのヘイスティングスでジョージ・ベラニーとキティ・コックスの息子として生まれた[4]。父ジョージは放浪癖とアルコール依存症を抱え、アーチーが幼いうちに家族を捨てて去った。その後アーチーは、伯母のエイダとキャリー・ベラニーの二人に育てられた。
幼少期から北米先住民の文化に強く魅了されていたアーチーは、家に野兎・蛇・ネズミなどを飼い、ヘイスティングスの郊外で動植物を観察しながら育った。学業ではもっぱら文学と宗教知識を得意としたが、15歳で学校を離れ、地元の材木置き場で事務員として働き始めた[5]。カナダの森の中で先住民とともに生活することを夢み、17歳のとき伯母を説得して渡航費用を工面し、カナダへと旅立った。
カナダ移住と初期の生活(1906年–1925年)
1906年3月、アーチーはノバスコシア州ハリファックスに上陸し、その後オンタリオ州テマガミ湖へ向かった。そこでオジブウェーの一家、エグウナ家と出会い、ジョンの姪アンジェル・エグウナからオジブウェー語、カヌー操法、罠猟を学んだ。1910年にアンジェルと結婚したが、翌年には彼女と幼い娘を捨てて去り、父親のパターンを繰り返した[6]。
1912年ごろ、オンタリオ州北部の小さな林業の町ビスコタシング(通称「ビスコ」)に移り、夏は森林警備員・ガイド、冬は毛皮猟師として生計を立てた。この頃すでに英語なまりを消し、スコットランド人の父とアパッチの母を持つ混血であるという作り話を語り始めていた。
第一次世界大戦勃発後の1915年5月、ノバスコシア州ディグビーで入隊。フランスへの従軍中に右足に銃弾を受けて負傷し、1917年にイングランドで除隊した。帰国中にフローレンス・ホームズと結婚したが、まもなくカナダへ戻り、フローレンスとは1922年に離婚した[7]。
アナハレオとの出会い・転向(1925年–1931年)
1925年夏、テマガミ島のキャンプ・ワビコンでガイドをしていたベラニーは、アルゴンキンとモホーク系の19歳の女性ジェルトルード・バーナード(後に「アナハレオ」として知られる)と出会い、交際を始めた[8]。アナハレオの影響で、ベラニーはビーバーの毛皮猟の残酷さに向き合い、1928年ごろから猟師から保護活動家へと転向し始めた。きっかけはビーバーの母親を罠で捕らえた後に残された二頭の子ビーバーを、アナハレオが育てることを主張したことであった。ベラニーはその子ビーバーに「マクギニス」「マクギンティ」と名づけ、以来ビーバーの保護を自らの使命と定めた[9]。
1929年3月、最初の論文「最後のフロンティアの消滅」("The Passing of the Last Frontier")をイギリスの雑誌『カントリー・ライフ』に発表し、同誌から本の出版を打診された[10]。
国立公園での活動と作家としての名声(1931年–1938年)
1931年、カナダ自治領公園局(Dominion Parks Branch)に採用され、マニトバ州ライディング・マウンテン国立公園に配属され「公園動物管理人」(caretaker of park animals)に任命された[11]。同年末、サスカチュワン州プリンス・アルバート国立公園のアジャーワン湖畔に「ビーバー・ロッジ」と呼ばれる丸太小屋を建て、ビーバーの「ジェリー・ロール」と「ロウハイド」とともに移住した。
同年、最初の著書『最後のフロンティアの人々』(The Men of the Last Frontier)を出版。以後、カナダ及びイギリスで講演を重ね、1935年から1937年にかけてイギリスで大規模な講演ツアーを実施し、一回のツアーだけで25万人以上の聴衆を集めた[12]。1937年のイギリス訪問ではジョージ6世国王一家の前でも講演を行った[13]。
死と素性の発覚
イギリス講演ツアーから帰国後、1938年4月13日にプリンス・アルバートで肺炎のため49歳で死去した。死の当日、ノース・ベイ・ナゲット紙がベラニーの真の素性を報道した。グレイ・オウルが先住民ではなく、イングランド生まれのイギリス人「アーチボルド・ベラニー」であったことが他の新聞各紙にも広まり、保護活動家としての業績は一時的に忘れ去られた[14]。
先住民アイデンティティの詐称
ベラニーは、スコットランド人の父とアパッチの母を持つ混血(メティ)として自身を紹介し、「グレイ・オウル(夜に飛ぶ者)」という名前を名乗り続けた。自らの外見を偽るため、髪を黒く染め、長く伸ばし、バックスキンの衣装やビーズ細工のアクセサリーを身につけ、オジブウェーや他のファースト・ネーションズの人々から学んだ所作を取り入れた[15]。
ベラニーがこのような偽りのアイデンティティを採用した動機については、研究者の間で様々な見方がある。自身の言葉によれば、先住民族の立場から語ることで自然保護のメッセージが入植者カナダ人により深く届くと考えたとされる[16]。一方で現代の研究者・先住民コミュニティの観点からは、ベラニーの詐称はカナダの先住民族が差別的な政策に苦しんでいた時代に、先住民の代弁者を自称して文化の盗用(w:Cultural Appropriation)する行為であったと批判されている。プリンス・アルバート国立公園の歴史的解説は「ベラニーが公園内でビーバー・ロッジに住んでいた同じ時期、公園の国境周辺の先住民コミュニティは、公園内の自分たちの土地や資源へのアクセスを阻まれ、その行動が犯罪化されていた」と指摘している[17]。
著作活動と業績
主な著作
- Grey Owl. The Men of the Last Frontier. London: Country Life, 1931.
- Grey Owl. Pilgrims of the Wild. Toronto: Macmillan of Canada, 1934(イギリス版:Lovat Dickson & Thompson, 1935; アメリカ版:Charles Scribner's Sons, 1935).
- Grey Owl. The Adventures of Sajo and Her Beaver People. London: Lovat Dickson, 1935.(児童書)
- Grey Owl. Tales of an Empty Cabin. Toronto: Macmillan of Canada, 1936.
受賞・栄誉
- 1997年6月、ヘイスティングス市長と地元議員マイケル・フォスターが、ベラニーの生家(ヘイスティングス、セント・ジェームズ・ロード32番地)に記念プレートを設置。
- 成長した家(セント・メアリーズ・テラス36番地)にも別途記念プレートが設置されている。
- ヘイスティングス博物館にはカナダの湖畔の小屋の復元模型と関連遺物の展示がある[20](※この記述の一次情報源として博物館公式サイトを参照のこと)。
- プリンス・アルバート国立公園はビーバー・ロッジを保存・公開している[21]。
思想・考え方
グレイ・オウルの核心的な主張は、「人間は自然に属するのであり、自然が人間に属するのではない」という考え方に集約される。彼は過剰な毛皮猟・森林伐採・鉱山開発がカナダ北部の荒野とそこに生きる動物・先住民双方を破滅に導くと警告し、保護と持続的利用の倫理を説いた。この視点は、商業的な自然資源の無限消費を当然視していた当時の主流的態度と真っ向から対立するものであった[22]。
ビーバーはグレイ・オウルの思想の象徴的存在であった。ビーバーはダムを築いて湿地を生み出し、生態系全体に恩恵をもたらす「生態系エンジニア」である。グレイ・オウルはビーバー保護プログラムを通じて、種の保護が生態系全体の健全性につながることを実践的に示そうとした[23]。
また彼の文章は単なる説教ではなく、荒野での生活を詩的・物語的に描写することで読者の感情に訴えかけるものであった。出版者ヒュー・イアーズは、グレイ・オウルについて「彼にとって荒野は教区である。まるで聖職者が神から召命を受けるように、彼は保護と保全の事業に召されていると感じている」と評した[24]。
発言
彼の思想の理解を助けるため、キーワードごとに分類した彼自身の説明等の発言を以下に引用する。
- 自然保護の本質
- 「最終的には、私たちが自然に属するのであって、自然が私たちに属するわけではないことを、忘れないでいただきたいのです。」
- (原文:"We must remember that in the end nature does not belong to us, we belong to it.")[25]
- 荒野への献身
- 「良いカヌーと、オジブウェーのスノーシュー、ビーバーたち、家族、そして一万平方マイルの荒野さえあれば、私は幸せなのです。」
- (原文:"Give me a good canoe, a pair of Jibway snowshoes, my beaver, my family and ten thousand square miles of wilderness and I am happy.")[26]
- 執筆と保護活動の使命
- 「私が書くすべての言葉、これまでしてきたすべての講演、そしてこれからするすべての講演は、ビーバーという民のため、すべての野生生物のため、先住民と混血の人々のため、そしてカナダのために、わずかながらでも役立てようとするものなのです。」
- (原文:"Every word I write, every lecture I have given, or ever will give, were and are to be for the betterment of the Beaver people, all wild life, the Indians and halfbreeds, and for Canada, in whatever small way I may.")[27]
- 罠猟から保護へ——内省
- 「獲物を多く仕留めると、いつしか勝利の気分ではなく、むしろ嫌悪感が込み上げてきます。荒野の神殿の中で独りで過ごす時間が長くなるほど、普通の生活の中ではなかなか考えないようなことを、深く思索するようになるものなのです。」
- (原文:"Much Killing brings in time, no longer triumph, but a revulsion of feeling... he who lives much alone within the portals of the temple of Nature learns to think, and deeply, of things which seldom come within the scope of ordinary life.")[28]
映像作品への出演
グレイ・オウルは公園局の委嘱を受け、カナダ国立映画制作庁(National Film Board)等により制作された複数の短編映画にビーバーとともに出演した。
- 『ビーバー・ピープル』(The Beaver People)監督:ビル・オリバー(1928年)
- 『ビーバー・ファミリー』(The Beaver Family)監督:ビル・オリバー(1929年)
- 『グレイ・オウルの弟分』(Grey Owl's Little Brother)監督:ゴードン・スパーリング(1932年)
- 『ビーバーランドの奇妙な出来事』(Strange Doings in Beaverland)監督:ビル・オリバー(1932年)
- 『グレイ・オウルの隣人たち』(Grey Owl's Neighbours)監督:ビル・オリバー(1934年)
- 『グレイ・オウルの奇妙な客たち』(Grey Owl's Strange Guests)監督:ゴードン・スパーリング(1934年)
- 『荒野の巡礼者』(Pilgrims of the Wild)監督:ビル・オリバー(1935年)[29]