ケシネ (ナラ氏)

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ケシネ
名称表記
満文ᡴᡝᠰᡳᠨᡝ
転写kesine
漢文「スヘデ」系統 (明側呼称)
  • 速黑忒(明實錄など[1])
  • 錫赫特(滿洲源流考-13)

「ケシネ」系統 (清側呼称)

  • 克錫納(滿洲實錄-1)
  • 克習納(八旗滿洲氏族通譜など[2])
  • 克什納(清史稿-223)
  • 克失你(開原圖說-1)
出生死歿
出生年不詳
死歿年嘉靖12(1533)?
血筋(主要人物)
伯父ドゥルギ(四代フルン国主)
伯父スヘデ(漢:蘇赫徳)[3]
スイトゥン
次子 ワンジュ(初代ハダ部主)
ワン(初代ハダ国主)

ケシネは、明朝中後期に活躍したナラ氏女真族ハダナラ氏始祖・ワンジュ (王忠) の父、及び初代ハダ国主・ワン (王台) の祖父にあたる。

フルン・グルン (海西女直) の衰亡期にあって勢力を伸ばし、明朝からの信頼を得て都督 (異民族の役職の最高位) にまで上り詰めたが、塔山前衛[4]の内紛で殺害された。

尚、この人物については史料によって族柄、呼称が区々である為、本記事では「初代ハダ部主・ワンジュの父、初代ハダ国主・ワンの祖父」と緩く定義し、呼称についてはひとまづ「ケシネ」を採用した。詳細については後述する。

主に明代史料を中心として現れる「速黑忒」と、主に清代史料を中心として現れる「kesine dudu」の間には、例外は勿論あれど、概ね、①ワンの祖父、②塔山前衛[4]都督、③猛克を殺害、という共通点がみられる。従って、満洲史学界には両者を同一人物であるとする説もある。以下にこの二系統の名前をまとめる。

一覧の見方:

 編纂時代『史籍名称』(呼称表記普通話拼音):族柄+事績など。

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「速黑忒」系

  • 明朝『東夷考略』(速黑忒sūhēitè):捕殺叛夷猛克,右都督。
  • 明朝『明實錄』(速黑忒sūhēitè):塔山前衞女直都督。
  • 明朝『開原圖說』(速黑忒sūhēitè):塔山前衞左都督,子克失你,子王忠,孫王台。
  • 清朝『滿洲源流考』巻13 (錫赫特xīhètè):孫王台,左都督。
  • 清朝『八旗滿洲氏族通譜』巻23 (蘇赫徳sūhètè):嘉穆喀碩朱古第三子。

「kesine dudu」

  • 明朝『開原圖說』(克失你kèshīnǐ):祖父速黑忒,子王台。
  • 清朝『柳邊紀略』巻3 (克習納kèxínà):都爾機長子,族人巴代達爾漢所害,孫萬。
  • 清朝『八旗滿洲氏族通譜』巻23 (克習納kèxínà):萬之祖, 都督, 族人巴代達爾漢所害。
  • 清朝『滿洲實錄』巻1 (克錫納kèxīnà):生徹徹木徹徹木生萬,都督,族人巴岱達爾漢所殺。
  • 清朝『東華錄』巻1 (克習納kèxínà):萬汗祖,都督,族人巴代達爾漢所害。
  • 民国『清史稿』巻223 (克什納kèshìnà):掌塔山左衞,捕叛者猛克,授左都督,族人巴代達爾漢所殺,子二:長徹徹穆,次旺濟外蘭。

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簡単に浚った限りでは以上の通り。両系統を別人物として掲載しているのは明代の『開原圖說』と清代の『八旗滿洲氏族通譜』の二つ (速黑忒と克失你、蘇赫徳と克習納) だが、族柄が一致しない。それ以外で「kesine」系統の呼称を掲載している明代史料は確認できないが、「速黑忒」系統の呼称は清代史料にもみられる。但し、『滿洲源流考』は明代史料を基に作成され、編纂時点での現地調査はほとんどなされていないとされる為、その点では明代史料の踏襲といえる。また、清代史料を見る限りでは同時代の史料間で共通事項を見出すことが可能だが、明代の史料は、各々が清代の史料とは共通点をもつものの、「右都督」系、「左都督,孫王台」系、其他系の三種にわかれ、明代史料のみからは完全な一致をみない。

学者の中には「スヘデ (suhede) はケシネ (kesine) の転訛であろう」[5]として、両人物を同一視する向きもあり、それを支持する向きもまた少なくないという。[6]尚、趙東昇氏 (吉林師範大学客員教授、ウラナラブジャンタイの後裔) はこれに対し、スヘデは確かにギヤマカの第三子であり、一時は塔山衛[7]および塔山前衛[4]を弟のスイトゥンとともに牛耳ったが、しかしその後、スヘデが蒙古と交戦して命を落とすと、スイトゥンは入貢勅書の奪取を謀ってわざとその死亡を明朝側に報せず、秘密裡に子のケシネにスヘデの名を騙らせた (なりすませた)、としている。[8]

略歴

弘治15 (1502) 年旧暦11月23日、入貢。[9]

正徳13 (1518) 年、塔山前衛指揮から塔山前衛[4]都督僉事に昇任した。[10]

正徳15 (1520) 年旧暦12月26日、年例の入貢とは別に小熊を一頭進納品した。[11]

正徳16 (1521) 年旧暦正月15日、入貢。[12]同年旧暦3月、正徳帝が崩御、同年旧暦4月、嘉靖帝が即位した。同年旧暦7月16日、入貢[13][14][15]

嘉靖元 (1522) 年旧暦3月7日、折銀を要望し、特例として下賜された。[16]同月24日、大帽、金帯の賜与を要望し、明朝は承諾した。[17][15]

嘉靖3 (1524) 年旧暦正月18日、入貢。[18]同年旧暦2月14日、昇任から七年を理由[19]に蟒衣[20]の賜与を要望し、明朝は承諾した。[10][15]この頃、塔山前衛を領知し、諸部のうちで権勢を誇った。[21]

嘉靖7 (1528) 年旧暦正月10日、入貢。[22]

嘉靖10 (1531) 年旧暦3月19日、猛克誅殺の功労により、獅子彩幣、金帯、大帽が下賜され、更に左都督に昇任した。[21]猛克は開原城 (現遼寧省鉄嶺市開原市) 外で山賊を生業とし、朝貢帰りの他部落の酋長を待ち伏せしては、その褒賞を強奪していた。[23]

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ケシネが住んでいたのは開原城から400余里の松花江沿岸 (現吉林市乃至烏拉街附近) で、そこには北上する松花江 (=第二松花江) 一帯の諸酋長が必ず通る要路があった。[23][24]一説には、ケシネ都督はそこで諸部族から通行料をとり、払わない者には服従や貢納を要求していた一方、借用などの名目で諸部族から横奪した貢勅を使い、名前を偽って (冒名) 入貢し、巨利をあげ、そうして一大勢力を築いたとされる。[25]

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嘉靖12 (1533) 年[25][26]、塔山前衛の内乱で同一族[27]のバダイ[28]により殺害された。この時、長子・チェチェム、子・汪古羅、子・汪古六らも命を落としたが、[29][30]次子・ワンジュは難を逃れて南下し、開原城の東南方に落ち着いて、後にハダ部主となった。ここに、名門部族・ナラ氏からハダナラ氏が派生する。同じ頃、チェチェムの子・はシベ部に亡命し、ワンジュ横死後にハダ部へ迎えられ、建国して初代ハダ国主となる。

嘉靖13 (1534) 年旧暦3月19日、明朝はケシネらの亡骸に祭奠を賜った。[31][32]

一族

脚註

参照

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