グデイ・ジュヤン
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| 名称表記 | |
|---|---|
| 満文 | ᡤᡠᡩᡝᡳ ᠵᡠᠶᠠᠨ |
| 転写 | gudei juyan |
| 漢文 |
|
| 生歿即位 | |
| 出生年 | 不詳 |
| 即位年 | 弘治6(1493)頃? |
| 死歿年 | 不詳 |
| 血筋(主要人物) | |
| 高祖 | ナチブル(初代フルン国主) |
| 父 | ドゥルギ(四代フルン国主) |
| 孫 | ブヤン(初代ウラ国主) |
グデイ・ジュヤンはナラ氏女真族。四代目フルン国主・ドゥルギの子。五代目国主。
族人や子孫との続柄以外に記述がのこらない為、個人の事績について詳しくはわかっていない。フルンはこの頃、既に余喘を保つに過ぎないほど弱体化していたか、或いは実質的な瓦解状態にあったとされる。[1][2]
族譜
ナチブル:ナラ氏始祖。初代フルン国主。
- 子・シャンギヤン・ドルホチ[3]:ナチブルの子。二代フルン国主。
子孫
閲覧にあたっては以下の点について注意されたい。
* 本項目は基本的に『八旗滿洲氏族通譜』巻23に拠って作成した。
*「父不詳」の人物全てに別々の人物を父あるいは父祖として充てていては際限がない為、便宜上、「父不詳」の人物同士でまとめた。譬えば、来孫が複数人でてくる場合、続柄は兄弟なのか、従兄弟 (いとこ) なのか、再従兄弟 (はとこ) なのか不明でも、原典で紹介されている纏まりごとに同じ一人の人物の下にまとめた。反対に、父祖をあえて分けていても実際は同じ父祖の一族である可能性も考えられる。
* 原典中では明らかに兄弟とわかる書き方がされていても、その順番の不詳な人物がしばしばみられる。譬えば、ある人物の第三子、その実兄、その実弟の順で爵位や世職を承襲する場合、「実兄」=長子、「実弟」=次子とも考えられる一方、「実弟」は四子以下かもしれない。これについても正確に順序を再現することは不可能の為、その時の判断で配列した。
*『八旗滿洲氏族通譜』中に事績の記述がある人物については「★」を附し、「事績・栄典」の項目にも別途記載した。
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四代目フルン国主・グデイ・ジュヤンには、長子・タイアンと次子・タイランの二子があったとされる。五代目国主に即位するのはこの内、次子・タイランである。[1]長子・タイアンは『八旗滿洲氏族通譜』中のタイフィカにあたる。
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- 子・タイフィカ (taifika, 台費喀/ タイアン, taian, 太安):グデイ・ジュヤンの長子。[11]
- 孫・ブハナ (buhana, 布哈納):タイフィカの子。[11]★
- 曾孫:不詳。
- 曾孫 (名不詳):メンクルの大叔父。[12]
- 曾孫:不詳。
- 孫・ムンキ (mungki, 孟起):ブハナの実弟。[15]
- 孫:不詳。
- 曾孫:不詳。
- 玄孫・カクシ (kaksi, 喀克錫):タイフィカの曾孫。[16]★
- 来孫:不詳。
- 昆孫・ブヤング (buyanggū, 布楊武):カクシの孫。父不詳。驍騎校を務めた。[16]
- 昆孫・ブカナ (bukana, 布喀那):カクシの孫。父不詳。護軍校を務めた。[16]
- 仍孫・ノクト (nokto, 諾克托):カクシの曾孫。父不詳。城門尉を務めた。[16]
- 仍孫・ダハタ (dahata, 達哈塔):カクシの曾孫。父不詳。主事を務めた。[16]
- 仍孫・クワンジュ (kuwanju, 関柱):カクシの曾孫。父不詳。護軍校を務め、佐領を兼任した。[16]★
- 仍孫・アハブ (ahabu, 阿哈布):カクシの曾孫。父不詳。佐領を務めた。[16]★
- 雲孫・レデ (lede, 勒徳):アハブの子。[16]★
- 雲孫・グワラ (gūwara, □喇):カクシの玄孫。父不詳。防禦を務めた。[17]
- 雲孫・ジェルムブ (jelumbu, 哲倫布):カクシの玄孫。父不詳。防禦を務めた。[17]
- 雲孫・チャンボー (cangboo, 常保):カクシの玄孫。父不詳。郎中を務めた。[17]
- 雲孫・サナイ (sanai, 薩鼐):カクシの玄孫。父不詳。驍騎校を務めた。[17]
- 八世孫・ワルダ (walda, 瓦爾達):カクシの来孫。父不詳。七品官を務めた。[17]
- 八世孫・ドゥイチン ( , 対秦):カクシの来孫。父不詳。防禦を務めた。[17]
- 八世孫・ジャルフ (jarhū, 札爾琥):カクシの来孫。父不詳。驍騎校を務めた。[17]
- 八世孫・サクシリ (saksiri, 薩克錫理):カクシの来孫。父不詳。筆帖式を務めた。[17]
- 八世孫・ヤトゥ (yatu, 雅図):カクシの来孫。父不詳。廐長を務めた。[17]
- 八世孫・フワシャン (hūwašan, 華善):カクシの来孫。父不詳。郎中を務めた。[17]
- 八世孫・ナトゥン (natung, 納通):カクシの来孫。父不詳。筆帖式を務めた。[17]
- 八世孫・ナユ (naioi, 納玉):カクシの来孫。父不詳。防禦を務めた。[17]
- 来孫:不詳。
- 玄孫・アイングル (ainguru, 愛音榖魯):タイフィカの曾孫。父不詳。[18]★
- 来孫・ジマン (jiman, 積満):アイングルの子。郎中を務めた。[18]
- 昆孫・バンダイ (bandai, 班第):ジマンの長子。護軍参領、都統を歴任した。[18]★
- 昆孫・アルナ (arna, 阿爾那):ジマンの次子。七品官、都統を歴任し、佐領を兼任した。[18]★
- 昆孫・ファカ (faka, 法喀):ジマンの三子。副都統を務めた。[18]
- 昆孫・ファクジン (fakjin, 法克晋):ジマンの四子。八品官、頭等侍衛を務め、長史を兼任した。[18]★
- 昆孫・ラクジン(lakjin、拉克晋):ジマンの五子。員外郎を務めた。[18]
- 昆孫・ソジュ (soju, 索柱):ジマンの六子。筆帖式を務めた。[18]
- 来孫・ニマン (niman, 尼満):アイングルの子。郎中を務めた。[19]
- 来孫・ジマン (jiman, 積満):アイングルの子。郎中を務めた。[18]
- 玄孫・カクシ (kaksi, 喀克錫):タイフィカの曾孫。[16]★
- 曾孫・ガダンタイ (gadantai, 噶丹泰):アイングルの実叔。父不詳。[20]
- 曾孫・トゥルクン (tulkun, 図爾坤):アイングルの実叔。父不詳。[21]
- 玄孫:不詳。
- 来孫・ヤンゲ (yangge, 揚格):トゥルクンの孫。父不詳。驍騎校を務めた。[21]
- 玄孫:不詳。
- 曾孫・デリケン (deliken, 徳礼肯):アイングルの実叔。父不詳。[22]
- 曾孫・フォソノ (fosono, 仏索諾):アイングルの実叔。父不詳。[23]
- 玄孫・アハイ (ahai, 阿海):フォソノの子。城門尉を務めた。[23]
- 玄孫・エンスルフ (ensurhu[24], 阿爾蘇瑚):フォソノの子。頭等侍衛を務めた。[23]
- 来孫・ガハ (gaha, 噶哈):フォソノの孫。父不詳。太常寺卿を務めた。[23]
- 来孫・アンジュフ (anjuhū, 安珠瑚):フォソノの孫。父不詳。城門尉を務めた。[23]
- 来孫・サハイ (sahai, 薩海):フォソノの孫。父不詳。委署護軍参領を務めた。[23]★
- 昆孫・チャンショウ (cangšeo, 常綬):サハイの子。委署護軍参領を務めた。[23]★
- 昆孫・イェムブ (yembu, 殷布):フォソノの曾孫。父不詳。防禦を務めた。[23]
- 昆孫・ウルデン (ulden, 武爾登):フォソノの曾孫。父不詳。副将を務めた。[23]
- 昆孫・サンガリ (sanggari, 桑阿理):フォソノの曾孫。父不詳。護軍参領、護軍統領を務めた。[23]★
- 曾孫・トトブ (totobu, 托托布):アイングルの実叔。父不詳。[25]
- 曾孫:不詳。
- 孫:不詳。
- 孫・ブハナ (buhana, 布哈納):タイフィカの子。[11]★
- 子・タイラン[27]:グデイ・ジュヤンの子。六代 (末代) フルン国主。
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事績・栄典
ブハナ (布哈納)
タイフィカの子・ブハナは、アイシン (後金) 初期にウラ地方から帰順し、鑲紅旗に編入された。[11]
ブハナの曾孫・メンクルは、副都統として北京を経由し山東征討に従軍した。慶都県 (現河北省保定市望都県?) では攻城戦を指揮して攻略し、慶都出発に際して辺境地帯で高太監らの兵を破った。後に錦州 (現遼寧省錦州市) 包囲戦で戦死し、騎都尉 (世職) を追贈され、子のバインダ (拝殷達) が襲職した。バインダは北京入城 (明清交替) に際して流賊を山海関外で破ると、安粛県 (現在河北省保定市徐水区?) まで追逐して多数の敵を斬伐し、騎都尉兼一雲騎尉に昇格した。更に流賊の撃破、福王・朱常洵の討伐、河南、江南などの平定、と立て続けに戦功をあげ、福建征討では汀州府 (現福建省西部) を攻略して、三等軽車都尉に昇格、尋いで優詔により二等軽車都尉に昇格した。[11]
バインダ死後、子・トバイ (托拜)、トバイの実弟・トミダイ (托米岱)、トミダイの子・バイミダ (拝米達) が相継いで襲職した。バイミダに継嗣なく、雍正11 (1733) 年に世襲者なしと確認され、メンクルの大叔父の元孫・バイリンガ (拝霊阿) が継嗣として雲騎尉を承襲した。バイリンガ死後、子・バイリン (拝齢) が襲職した。[12]
ブハナの玄孫・バイムブは、七品官としてチャハル部ブルニ (布爾尼) 征討に従軍し、大鹵地方 (現山西省太原市) で幾度も敵兵を破り、雲騎尉 (世職) を授与された。オイラト部ガルダン・ハーン征討でも敵兵撃破で戦功をあげ、騎都尉に昇格した。バイムブ死後、子・バイミンガ (拝明阿) が襲職した。[13]
カクシ (喀克錫)
タイフィカの曾孫・カクシは、アイシン (後金) 初期にウラ地方から帰順し、鑲黄旗に編入された。[16]
カクシの曾孫・クワンジュ (関柱) は、護軍校としてチャハル部ブルニ (布爾尼) 征討に従軍し、大鹵地方 (現山西省太原市) で敵兵撃破に戦功をあげ、雲騎尉を授与された。死後、子・サンゲ (桑格) が襲職した。[16]
同じくカクシの曾孫・アハブは、佐領として浙江、福建出征に従軍し、衢州府 (現浙江省衢州市) で提督・周烈らの兵数万を破った。後、太平山 (不詳) で総督・趙得勝らの26営を立て続けに破り、雲騎尉 (世職) を授与され、更に優詔により騎都尉に昇格した。死後、子・レデ (勒徳) が襲職したが、優詔による加増分を削られ、雲騎尉を承襲した。[16]
アイングル (愛音榖魯)
タイフィカの曾孫・アイングルは、アイシン (後金) 初期にウラ地方から帰順し、正白旗に編入された。[18]
アイングルの孫・バンダイ (班第) は、護軍参領としてオイラト部ガルダン・ハーン征討に従軍し、敵兵撃破で戦功をあげ、雲騎尉を授与された。バンダイ死後、孫・ヒンデ (興徳) が襲職した。[18]
同じくアイングルの孫・アルナ (阿爾那) は、七品官として浙江、福建征討に従軍し、金華府 (現浙江省金華市)、泉州府 (現福建省泉州市) などで幾度も敵兵を破り、雲騎尉を授与された。アルナ死後、孫・チェンデ (成徳) が襲職した。[18]
同じくアイングルの孫・ファクジン (法克晋) は、八品官として広東、広西征討に参加し、桃墱地方 (不詳) で幾度も敵将・范斉韓の兵を破った。続いて雲南に出征し、敵将・何継祖らの兵を黄草壩 (現貴州省興義市) で破り、雲騎尉を授与された。死後、子・チョルダイ (綽爾岱) が襲職した。[18]
フォソノ (仏索諾)
アイングルの実叔・フォソノの孫・サハイ (薩海) は、委署護軍参領として湖広征討に従軍し、茅□山[28](不詳) で幾度も敵衆を破った。江西では撫州府を包囲して抗戦する敵兵を破り、死後に雲騎尉を追贈された。サハイ死後、子・チャンショウ (常綬)、チャンショウの子・サンゲ (桑格) が襲職した。[23]
フォソノの曾孫・サンガリ (桑阿理) は、護軍参領としてオイラト部ガルダン・ハーン出征に従軍し、敵兵撃破で戦功をあげ、雲騎尉を授与された。尋いで護軍統領に昇任し、トゥイ・ビラ (推河)[29]に向う途中で戦死して雲騎尉を追贈された。[30]子・スジャンガ (蘇彰阿) が襲職したが、後に剥奪され、スジャンガの実弟・フハイ (福海) が襲職した。[23]