ケネス・カウンダ
ザンビアの初代大統領 (1924–2021)
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ケネス・デヴィッド・カウンダ(英語: Kenneth David Kaunda, 1924年4月28日 - 2021年6月17日)は、ザンビアの政治家。同国初代大統領(在任期間: 1964年 - 1991年)。
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| ケネス・カウンダ Kenneth Kaunda | |
| 任期 | 1964年10月24日 – 1991年11月2日 |
|---|---|
| 副大統領 | 一覧参照
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| 首相 | 一覧参照
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| 任期 | 1970年9月1日 – 1971年6月21日 1987年7月27日 – 1988年5月25日 |
| 事務総長 | ディアロ・テリ イデ・ウマロウ |
| 任期 | 1970年9月10日 – 1973年9月9日 |
| 任期 | 1964年1月22日 – 1964年10月24日 |
| 女王 | エリザベス2世 |
| 総督 | エヴリン・ホーン |
| 出生 | 1924年4月28日 |
| 死去 | 2021年6月17日(97歳没) |
| 政党 | 統一民族独立党 |
| 受賞 | |
| 出身校 | ルサング大学 |
| 配偶者 | ベティ・カウンダ (1946年 - 2013年) |
| 子女 | 8人 |
| 宗教 | キリスト教プロテスタント長老派 |

大統領在任中はジンバブエやアンゴラ、モザンビークといった周辺国の独立を支援したほか、南アフリカ共和国のアフリカ民族会議 (ANC)を支援した一方、国内では独裁体制が批判された[1]。大統領を退任した1991年まで発行されていたザンビア・クワチャ紙幣に肖像が使用されていた。
概要
経歴
1924年、イギリス領だった北ローデシア北部のチンサリで、マラウイ出身のスコットランド長老派教会の牧師の8番目の末っ子として生まれる[2]。学校卒業後教師となっていたが、1951年、北ローデシアアフリカ民族会議が結成されるとそれに参加し、1953年には党の事務局長となったが[3]、1958年離党。1960年に統一民族独立党 (UNIP) を結成し、独立運動を展開。1962年の選挙で過半数を獲得し、北ローデシア植民地政府首相となる。
1964年ザンビアが独立すると、統一民族独立党を率いてそのまま大統領に就任。経済的には、欧米資本に握られていた鉱山などを国有化し社会主義政策を進め、タンザニアのジュリウス・ニエレレ大統領とともに中華人民共和国の支援を得てタンザン鉄道の建設を行った。1970年代までは、主力である銅の輸出が好調だったため経済も潤っており、市民の支持を背景に独裁の傾向を強め、1972年には統一民族独立党以外のすべての政党を禁止し、一党独裁政治を行い、カウンダスーツと呼ばれる中国の人民服に似た服装を愛用した[4]。外交面では、汎アフリカ主義の指導者の一人であり、南ローデシア(現在のジンバブエ)やアパルトヘイト体制下の南アフリカ共和国と対立してロバート・ムガベやネルソン・マンデラを支援するフロントライン諸国の議長の職をニエレレから引き継ぎ[5]、1980年代からは南部アフリカ開発共同体の前身である南部アフリカ開発調整会議や東南部アフリカ市場共同体の前身である特恵貿易地域をルサカで設立する[6][7]。
しかし、1980年代から銅の価格の暴落による経済の停滞と汚職問題に対する市民の不満が高まったため、1991年に民主化を行い、複数政党制による大統領選挙を実施。複数政党制民主主義運動(MMD)のフレデリック・チルバに敗れ、下野する[8]。
1992年、カウンダは統一民族独立党の党首を辞任。与党MMDはカウンダを敵視し、国籍要件の変更によりカウンダの大統領選出馬を不可能にし、またさまざまな弾圧を行ったため、UNIPは1996年の選挙をボイコットした。1997年にクーデター未遂事件が起こり、MMDは容疑者としてカウンダを逮捕したものの、やがて釈放された。1999年に息子ウェジが殺害されたことをきっかけに、2000年に政界を引退。1986年に息子マシジョをエイズ関連の病気で亡くしていたこともあり、政界引退後はHIVウイルス感染防止活動を行った。2021年6月17日、首都ルサカにある入院先の病院で死去[1][9][10]。97歳没。
スポーツとの関係
その他
2015年8月21日に日本で放送された『世界の村で発見!こんなところに日本人』にて現地に住む日本人の案内により、千原せいじがカウンダの家を訪ねている。