コチャン (ポロヴェツ族)

From Wikipedia, the free encyclopedia

コチャンコチャン・ストエヴィチロシア語: Котян (Котян Сутоевич))、またはケテニュハンガリー語: Kötöny、? - 1240年頃)は、モンゴルのルーシ侵攻に際し、ルーシ・ポロヴェツ連合を成したテュルク系ポロヴェツ族ハンである[注 1]

コチャンは他のポロヴェツ族のハンと同様に、ルーシ諸公の闘争に干渉した。コチャンの娘の一人(聖名:マリヤ)はルーシ公のムスチスラフ・ムスチスラヴィチに嫁いでいる。1205年ガーリチ公ロマンの死後にガーリチ公国で戦ったが敗れ、かろうじて捕縛されるのを逃れた。

1223年モンゴル帝国の軍がポロヴェツ族の地を侵略した後、コチャンは娘婿でガーリチ公となっていたムスチスラフの下に行くと、ムスチスラフをはじめとするルーシ諸公に、モンゴル軍に対する援軍を求めた。ルーシの諸公は援軍を承諾し、ルーシ・ポロヴェツ連合軍はカルカ河畔の戦いへと臨んだが、結果は敗北に終わった。

1237年早春、モンゴル軍は再びポロヴェツ族に攻撃を加えた。ラシードゥッディーンの記述によれば、3度目となる1238年の攻撃は、ポロヴェツ族にとって決定的な敗戦となった。ポロヴェツ族のうち降伏した人々と土地は、後のジョチ・ウルスに組み込まれた。コチャンは4万人のポロヴェツ族の軍勢と共にハンガリー王国へ逃亡すると、ハンガリー王ベーラ4世は彼らを自国民とみなし、住む土地を与えた[1]。その代償として、コチャンと彼の率いる人々は、それまでのテングリ崇拝からキリスト教へと改宗し、ハンガリー王国の忠実な国民であることを求められた。歴史的史料から、コチャンは1239年洗礼を受けたことが知られている。また、コチャンの娘の一人(洗礼名:エルジェーベト)は、後にイシュトヴァーン5世となる、ベーラ4世の子と結婚した[2]

コチャン一派のハンガリー化以降も、ハンガリー貴族らはポロヴェツ族に対して不信感を抱いていた。コチャンはモヒの戦い以前に、息子たちと共にペシュトで殺害された。敬愛する指導者の非業の死後に、激昂したポロヴェツ族は略奪を行い、キリスト教を破棄してブルガリア帝国カリマン1世の下へと去っていった。

脚注

参考文献

Related Articles

Wikiwand AI