コロンナ岬の戦い

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コロンナ岬の戦い (コロンナみさきのたたかい、ドイツ語: Schlacht am Kap Colonna)またはスティーロの戦い (英語: Battle of Stilo)は、982年7月13日および14日に、イタリア南部カラブリアクロトーネ付近で、神聖ローマ皇帝オットー2世ランゴバルド系諸侯によるキリスト教連合軍と、カルビ朝アブル=カースィム率いるシチリア首長国軍が衝突した戦闘。キリスト教軍はアブル=カースィムを戦死させたものの、反撃を受けて包囲され、多数の聖俗諸侯が戦死する大敗北を喫した。

アブル=カースィムはドイツ人に対するジハードを宣言して南イタリアを北上していたが、ロッサーノまでやってきたオットー2世の軍勢が予想外に多いことを知り後退を始めた。偵船からの知らせでこれを知ったオットー2世は、6月に皇后テオファーヌや息子オットー(後の3世)、それに物資や皇帝の宝物をロッサーノにおいて、メッツ司教ディートリヒに後を託し、シチリア軍を追撃した[1]。逃げられないと悟ったアブル=カースィムは、クロトーネ南東のコロンナ岬に布陣して会戦を挑んだ。

戦闘

戦闘が始まると、神聖ローマ帝国の重騎兵がシチリア軍の中央を崩壊させ、敵本陣にまで至った。この時アブル=カースィムは討ち取られたが、シチリア軍は完全には崩れず、逆に山に隠れていた5000人ほどの別動隊を動かして神聖ローマ帝国軍を包囲した[2]。勝利に酔って敵の死体から装備を掠奪していた神聖ローマ帝国軍は、奇襲を受けてパニックに陥った[3]。歴史家のイブン・アスィールによれば、神聖ローマ帝国軍の死者は4000人に上った。その中には、ベネヴェント公ランドルフォ4世アウクスブルク司教ハインリヒ1世マイセン辺境伯ギュンターフルダ修道院長、ほか19名のドイツ人の伯が含まれていた[4]。またヴェルチェッリ司教ペトルスなどは捕虜となり、エジプトのファーティマ朝の宮廷まで連行された[3]。オットー2世は命からがら脱出して海に飛び込み、泳いでギリシア人の商船にたどりついて助けられた[5][6]。この遠征中、オットー2世は東ローマ帝国とも対立していたので船では素性を隠そうとしたが、最終的に自ら正体を明かしたうえで、コンスタンティノープルの皇帝のもとに赴く前にロッサーノで皇后と合流し財貨を携えていきたいといって船員を説き伏せた[7]。船がロッサーノにつくと、オットー2世は船上で船員とメッツ司教ディートリヒが身代金交渉している隙に海に飛び込み、泳いでロッサーノの街に生還した[7]。その後、オットー2世は11月12日にようやくローマに帰還した。

レオポルト・フォン・ランケは、この戦いを「ドイツ王国にとってのカンナエ」と評している[3]

その後

脚注

参考文献

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