コンゴ自由国
かつてのアフリカに存在したベルギー国王の私有地
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コンゴ自由国(コンゴじゆうこく、英語: the Congo Free State)は、現在のコンゴ民主共和国が植民地だった時代初期[3]1885年から1908年までの呼称[4]。コンゴ独立国(フランス語: l'Etat indépendant du Congo)[3]とも言う。
| コンゴ独立国 コンゴ自由国 | |||||
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l'Etat indépendant du Congo the Congo Free State | |||||
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コンゴ自由国とベルギーの位置 | |||||
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国の標語:Travail et progrès 労働と前進 | |||||
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国歌:Vers l'avenir | |||||
| 首都 | ボーマ(1886年 - 1908年) | ||||
| 国王 | |||||
| 1885年 - 1908年 | レオポルド2世 | ||||
| 総督 | |||||
| 1885年 - 1886年 | F・W・ド・ウィルソン | ||||
| 面積 | |||||
| 1885年 | 2,590,000[1]km² | ||||
| 人口 | |||||
| 1880年 | 20,000,000[2]人 | ||||
| 1920年 | 10,000,000[2]人 | ||||
| 変遷 | |||||
| 成立 | 1885年7月1日 | ||||
| ベルギーによる併合 | 1908年11月15日 | ||||
| 通貨 | コンゴ・フラン | ||||
| 現在 |
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| コンゴの歴史() | ||
|---|---|---|
| コンゴ王国 | ||
| コンゴ自由国 | フランス領コンゴ | ポルトガル領 コンゴ |
| ベルギー領コンゴ | フランス領 赤道アフリカ |
ポルトガル領 アンゴラ |
| コンゴ共和国 | コンゴ共和国 | アンゴラ 人民共和国 |
| コンゴ民主共和国 | ||
| ザイール共和国 | コンゴ人民共和国 | |
| コンゴ民主共和国 | コンゴ共和国 | アンゴラ(カビンダ州) |


国と称するが、事実上ベルギー国王レオポルド2世の私有財産だった[4]。非人道的なアフリカ植民地支配のなかでもとりわけひどい悪政がレオポルド2世によって行われた[4]。殺されたコンゴ人は少なくとも500万人[5]、あるいは推定1000万人[6]と言われる。
概要
ベルギー国王レオポルド2世はスタンリーにザイール川流域を探検させる。国王の支援による探検だったためその成果は国王に帰属し、国王は1882年に「コンゴ国際協会」に委託支配させ、1885年のベルリン会議では公式に国王の私領地になった。レオポルド2世は世界史上もっとも広い私有地を所有する国王となった[7]。
国王の私領となったコンゴ自由国では耕作地も全てが国王の所有となり、住民は象牙やゴムの採集を強制された。規定の量に到達できないと手足を切断するという残虐な刑罰が容赦なく科され、前代未聞の圧制と搾取が行われていた。コンゴに一度も行かずにブリュッセルに住んでコンゴを統治した[8][9][注 3]レオポルド2世のもとには、切断された手首のいくつかが塩漬けにして届けられた[11]。
コンゴ自由国の自由国とは、「住民が自由な国」という意味ではなく、「自由貿易の国」という意味を当てこすった英語の俗称(Congo Free State)であり、公用語であるフランス語における正式国号はコンゴ独立国であった。
当時は多かれ少なかれ抑圧的な植民地政策が行われていた欧米列強各国からも、人道主義の立場に基づく非難が殺到した。特にイギリスは領事に実態調査を行わせている。またジャーナリストのエドモンド・モレルが『赤いゴム』という著作で、手足を切り落とす過酷な刑罰の下でのゴム採集の実情を白日のもとにさらけ出した。B.デヴィドスンは1955年刊の著書『アフリカの目覚め』で「レオポルド式体制はこの二〇年の間に、奴隷貿易がそれまでの一世紀全体を通じて殺したよりも、さらに多くのアフリカ人を殺したといえるであろう。」[12]と述べた[4]。殺されたコンゴ人は少なくとも500万人[5]、あるいは推定1000万人[6]と言われる。また、奪われた命は800万から1000万人[13]とも言われる。推定人口はおよそ2000万人[注 4]から1000万人に[2]、あるいは2000万人から800万人に[14]なったと言う。
国際社会の非難の声はますます高まり、国王の恣意的な暴政にベルギー政府も黙っていられなくなった。1908年10月、ベルギー政府は植民地憲章を制定し、国王はベルギー政府からの補償金と引き換えにコンゴ自由国を手放すことになった。同年11月、コンゴ自由国はベルギー政府の直轄植民地ベルギー領コンゴになった。これにより統治の実情は多少なりとも改善され、初等教育の導入などが行われた。
コンゴ自由国を圧政により支配したレオポルド2世への批判は、21世紀も続いている。2020年6月、アメリカ合衆国で発生した反人種差別デモがベルギーに波及した際には、レオポルド2世像の撤去を求めるオンラインによる数万の請願署名が集まった他、アントワープやブリュッセル、ヘントでレオポルド2世の像が放火されたり、落書きされたりした[6][15]。2020年6月、ベルギーのフィリップ国王はコンゴのフェリックス・チセケディ大統領あての書簡で、コンゴに対する植民地支配について痛惜の念および遺憾の意を表明し、ベルギー国王として初めてコンゴに謝罪した[16][17]。