阿若・憍陳如
釈迦の弟子
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名前
出身
経歴
シッダッタ太子が出家したのを知り、他の4人を促して同行したという。あるいは、太子が出家し尼連禅河(ネーランジャナー)の畔の山中で苦行する際、浄飯王の要請で仲間四人と共に随行した。しかるに釈迦は6年に及び苦行をしたが、これでは真の悟りを得ないと了知し、苦行林を出て河畔の地主・村長の娘・スジャーター(善生)による乳がゆの供養を食した[1]。憍陳如たちはそれを見て太子は苦行に耐えられず修行をやめたと思い込み、波羅奈国(ヴァーラーナシー)の鹿野苑に去ってしまった[1]。
しかし太子はすぐに菩提樹の下で瞑想に入り悟ってブッダ(仏陀)となるや、鹿野苑に赴いて憍陳如たち5人の修行者にはじめて法を説いた。これを初転法輪という[2]。この時に、彼は5人の中で仏の教えを一番初めに理解したので、釈迦牟尼仏が阿若(アンニャーシ、意味:理解した!)と称賛し、この名がついた[2]。
Atha kho bhagavā imaṃ udānaṃ udānesi – ‘‘aññāsi vata, bho, koṇḍañño, aññāsi vata, bho, koṇḍañño’’ti! Iti hidaṃ āyasmato koṇḍaññassa ‘aññāsikoṇḍañño’ tveva nāmaṃ ahosīti.[3]
時に世尊は賛じて言いたまへり、「憍陳如は悟れり、憍陳如は悟れり」。
此れよりして具憍陳如を名付けて阿若・憍陳如と言へり。
のちに舎利弗と目連が仏教教団に帰依してからは、二人が先輩である彼に気兼ねするのを見て隠棲を決意する。仏の許しを得てMandākinī(マンダーキニー)湖畔の付近にあるChaddanta(チャッダンタ、訳:六牙)林に移って隠棲し、そこで12年間を過ごした。その林の中で象による食の供養を受けていたと伝えられる。
しかし、自身が余命幾ばくもないと知ると、竹林精舎に在する仏のみもとに戻り、別れを告げて再び湖畔へ戻り、間もなく寂したといわれる。帝釈天は臣下のViśvakarman(毘首羯摩、建築を司る天神)に命じて、憍陳如のために重閣を建造させた。諸天は象と共にその亡骸を荼毘にふし、林の中で彼に食物を運んだり身辺の世話をしていた多くの象やヒマラヤの山々が彼の死を悲しんで泣いたと伝えられる。また彼の遺骨は他の比丘らが携えて竹林精舎の仏の許に運んだ。その遺骸を収めた制底(cetiya, 霊廟)は今も存するという(パーリ相応部註『Sāratthapakāsinī』)。