コンラート (ブランデンブルク辺境伯)

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在位 1266年 - 1304年
出生 1240年ごろ
死去 1304年
コンラート
Konrad
ブランデンブルク=シュテンダール辺境伯
コンラートと妃コンスタンツィアの墓碑
在位 1266年 - 1304年

出生 1240年ごろ
死去 1304年
埋葬 神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国
ブランデンブルク辺境伯領、コリーン修道院
配偶者 コンスタンツィア・プシェミスウヴナ
子女 ヨハン4世
オットー7世
ヴァルデマール
アグネス
家名 アスカーニエン家
父親 ブランデンブルク=シュテンダール辺境伯ヨハン1世
母親 ソフィア・ア・ダンマーク
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コンラート(Konrad, 1240年ごろ - 1304年)は、アスカーニエン家ブランデンブルク=シュテンダール辺境伯(在位:1266年 - 1304年)。

コンラートは、ブランデンブルク辺境伯ヨハン1世とその妻ソフィア(デンマーク王ヴァルデマー2世の娘)の息子である。1266年、父が崩御した時、コンラートは26歳であったが、兄のヨハン2世およびオットー4世と共にブランデンブルクの共同統治者となった。

コンラートは、ブランデンブルクで新たに獲得したノイマルク地方(オーデル川東側)を統治したが、政治の舞台にはほとんど姿を現さなかった。ある時、1269年のアルンスヴァルデ条約に基づき、兄のオットー4世がポメレリアムシチュイ2世と同盟を結んだ際、コンラートは兄のオットー4世を支援し、ポメレリアの都市グダニスクを占領し、リューゲンヴァルデ周辺のポンメルン地方の領土を獲得した。

コンラートは1304年に亡くなり、コリーン修道院の妻の隣に埋葬された。コリーン修道院の記録には、次のように記されている。

1304年、ブランデンブルク選帝侯コンラート(I.)辺境伯がシェド(?)で亡くなり、ここに埋葬されている。
テオドール・フォンターネ、『マルク・ブランデンブルク周遊記』[1]

結婚と子女

脚注

参考文献

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