サイモン・ラットレル (初代カーハンプトン伯爵)
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初代カーハンプトン伯爵サイモン・ラットレル(Simon Luttrell, 1st Earl of Carhampton、1713年 – 1787年1月14日)は、グレートブリテン王国の庶民院議員、アイルランド貴族。選挙区への影響力を得るために利権あさりや買収を繰り返し、ミッチェル、ウィガンなど選挙区を転々としたのち、最終的に1774年イギリス総選挙でストックブリッジ選挙区の2議席を得た[1]。官職や爵位を得るために与野党の立場を変えることも多く、最後は伯爵となった[1]。
生い立ち
ヘンリー・ラットレルと妻エリザベス(チャールズ・ジョーンズの娘)の次男として、1713年に生まれた[2]。父はジャコバイトであり、ウィリアマイト戦争でジェームズ2世の軍に従軍していたが、1691年のオーグリムの戦いで裏切った疑いがあり、1717年10月22日に殺害された[2]。兄サイモンは裏切らずジャコバイトのままだったが、私権剥奪され、1698年10月15日に父に先立ってフランスで死去した[2]。
ミッチェル
1754年イギリス総選挙でファルマス子爵家とエッジカム男爵家の後援を受けて、リチャード・ハッシーとともにミッチェル選挙区から出馬した[3]。ファルマスとエッジカム以外ではトマス・スコーエン、第5代準男爵サー・リチャード・ヴィヴィアン、チャールズ・コートネイ(Charles Courtenay)が有力者であり、コートネイが未成年だったため第4代サンドウィッチ伯爵が代わりに影響力を行使した[3]。前回の1747年イギリス総選挙ではスコーエンとコートネイが主導して、ハードウィック伯爵とサンドウィッチ伯爵がそれぞれ候補者1名を推薦したが、1754年の総選挙までにサンドウィッチ伯爵が野党に転じており、情勢は複雑になった[3]。首相ヘンリー・ペラムは気づかず、選挙前の調整でファルマス子爵にリチャード・ハッシーの後援を許可したが、いざ選挙活動が始まると、ファルマスは候補者2名の選挙活動をした[3]。ペラムがこのことを追認すると、スコーエンは大法官の初代ハードウィック伯爵に助けを求め、ハードウィック伯爵はスコーエンの主張に同意してペラムとエッジカム男爵と交渉したが、ペラムは「彼(スコーエン)は多くの人と同じように、私がただ一言命じるだけでみんなが彼に従うと当然のように思っている。私は人類がそんなに御しやすいとは思っていない」と不快感を示し、エッジカムも「有力者2名がバラ選挙区を独占すべきではなく、サンドウィッチ伯爵が推薦した候補はトーリー党員である」と反論したが、『英国議会史』はエッジカムの主張について「古くからの(ホイッグ党とトーリー党の)党争と何の関係もない」と評した[3]。ハードウィック伯爵はさらにペラムの弟にあたる初代ニューカッスル公爵にペラムの説得を求めたが、事すでに遅く、もはや選挙戦を回避できる段階になかった[3]。
1754年4月に行われた投票の結果はラットレル、ハッシーが25票で、スコーエンが支持した2候補の30票に敗れたが、2人は選挙申立を出した[3]。この選挙申立の審議で興味深い政争が起こった。すなわち、同じ与党に属するニューカッスル公爵がファルマスとエッジカムを、ハードウィック伯爵がスコーエンを支持し、ヘンリー・フォックスが友人で野党に属するサンドウィッチ伯爵を支持した[3]。与党がほぼ真っ二つに分かれた議題だったため、トーリー党はキャスティング・ボートを握ったが、トーリー党議員の大半が選挙申立で述べられた実態に注目したため、ラットレルとハッシーの逆転当選が1755年3月24日に宣告された[3]。
ウィガン
1757年ごろにウォリックシャーのフォー・オークス地所を購入した[1]。1758年、ラットレルはフレッチャー・ノートンとともに、ウィガン選挙区の議席獲得を視野に入れて、余所者ながらウィガン市政に介入した[4]。ウィガンでは1754年の総選挙でリチャード・バリー閣下(第4代バリーモア伯爵ジェームズ・バリーの息子)と第3代準男爵サー・ウィリアム・メレディスが当選しており、2人ともにトーリー党に属した[4]。ラットレルとノートンが与党ホイッグ党に属したため、首相の初代ニューカッスル公爵の後援を受けた[4]。議席獲得には1758年10月1日のウィガン市長選挙での勝利がキーであり、ラットレルとノートンの推薦した候補は1票差で敗北したため、2人は対立候補に投票した有権者4名を脅して、その投票を撤回させたが、退任する予定の現職市長がラットレル=ノートン側の有権者4名の投票を無効としたため、結局票差は変わらなかった[4]。2人は裁判を起こして、2年近くの審議を経て勝訴した[4]。これにより、1761年イギリス総選挙で2人ともウィガン選挙区から出馬して、無投票で当選した[4]。
しかしウィガンでの影響力は長続きせず、メレディスは1763年には第3代ポートランド公爵の後援を得て、影響力の奪回を目指した[4]。具体的には有権者の買収をもってウィガン市長選挙に勝利することであり、結果としては1764年にラットレルとノートン、メレディスとポートランドがそれぞれ市長選挙を主催して、自身の派閥の勝利を宣言した[4]。しかしポートランド側がウィガン市長のレガリアの入手に成功し、年末からの裁判にも勝訴したため、ラットレルは撤退を視野に入れてポートランドとの交渉を始めた[1]。ノートンは撤退を望まなかったが、ラットレルが自身に交渉を一任することを求めたため、それを許諾した[1]。そして、1765年5月に締結された協定ではラットレルとノートンが撤退、およびポートランドによる選挙区掌握を手助けして、その代償としてポートランドはラットレルに500ポンドを支払い、次の総選挙でラットレルまたはその息子を選挙費用なしで当選させるとした[1]。何の補償もなかったノートンは協定への署名を拒否したが、結局撤退を受け入れざるを得なかった[1]。
タムワースとウェブリー
ウィガンのほか、タムワース選挙区での議席獲得にも意欲を示した[5]。先立って購入していたフォー・オークスの地所はタムワースから約7マイルのところにあり、タムワースにもいくらか不動産を所有していたため、ウィガンと違ってタムワースではまったくの余所者というわけではなかった[1]。しかしラットレルの影響力は第3代ウェイマス子爵とジョージ・タウンゼンド閣下(1764年より第4代タウンゼンド子爵)よりはるかに弱く、両者のどちらかと連携する形でしか行使できなかった[5]。
1761年イギリス総選挙でラットレルがタムワースで立候補したとき、対立候補には第4代準男爵サー・ロバート・バーデットとウェイマスが後援するヴィリアーズ子爵がいた[5]。バーデットとヴィリアーズ子爵は選挙協力をしており、タウンゼンド子爵は独自に候補を立てるには影響力が足りないと判断して、2人を支持したが、一方でラットレルとも今後を見据えた同盟を結び、1761年の総選挙が終わった後に発効するとした[5]。
1765年にタムワースでヴィリアーズ子爵の後任を決める補欠選挙が行われることになり、タウンゼンドとウェイマスの交渉が決裂したため、タウンゼンドは1765年7月に改めてラットレルと協定を結び、ラットレルの長男ヘンリー・ローズ・ラットレルを候補に立て、2人が協力して選挙活動を行うとした[5]。候補者は直後に初代フェラーズ伯爵の息子ジョージ・シャーリー(George Shirley)に変わり、ウェイマスが選んだ候補者エドワード・サーローとの激しい選挙戦が始まった[5]。しかし選挙戦の間に交渉が再開され、結局1765年10月29日に妥協がなされ、シャーリーが立候補を取り下げ、タウンゼンドがサーローの選出を支持するとした[5]。代償として、ウェイマスはタウンゼンドの指名した候補を次期総選挙で当選させることを約束[5]、次期総選挙ではウェイマスとタウンゼンドがそれぞれ1議席を指名するとした[1]。この補欠選挙において、タウンゼンドとラットレルは選挙費用に合計で4,700ポンドを費やしたが、ラットレルは1,000ポンドしか出さなかった[1]。費用を折半するという約束だったが、ラットレルは色々な口実を使って満額の支払いを拒否、2人は1767年3月にオペラハウスで口論した[1]。
1767年8月、ラットレルはタウンゼンドがほかの選挙区で自身を当選させることができれば、タムワースでの議席を諦めると打診した[1]。ラットレルはすでにタムワースにおいて不人気になっており、タウンゼンドとウェイマスもラットレルが去ることを歓迎した結果、1768年1月の協定が締結され、ラットレルは1768年イギリス総選挙でウェイマスの懐中選挙区であるウェブリー選挙区から出馬して、無投票で当選した[5][6]。
アーナム男爵
庶民院議員としてのラットレルははじめ与党を支持し、1761年時点でもニューカッスル公爵から与党の一員として認められていたが、やがて第3代ビュート伯爵を支持するようになり、1763年から1765年にかけてのグレンヴィル内閣期では1764年2月にリンゴ酒税の廃止に賛成(内閣は廃止に反対)、ジョン・ウィルクスに対する一般逮捕状をめぐる採決で野党に同調した[1]。
首相ジョージ・グレンヴィルは1764年2月にアイルランド総督の初代ノーサンバランド公爵への手紙でラットレルをアイルランドのmuster master generalに任命することを求めたが、ノーサンバランド公爵はこの官職をアイルランド議会の議員に与えるべきだと主張し、グレンヴィルは要求を取り下げた[1]。その後、ラットレルはしばらくグレンヴィルに同調し、1765年から1766年までの第1次ロッキンガム侯爵内閣においては印紙法の廃止が審議され、内閣が賛成した一方ラットレルは反対した[1]。この状況は少なくともチャタム伯爵内閣期の1767年2月まで続いたが、グレンヴィルはラットレルを派閥に留める努力をせず、ラットレルは1767年7月までに与党に転じた[1]。そして、ビュート伯爵の申請と第一大蔵卿の第3代グラフトン公爵の推薦により[1]、ラットレルは1768年10月13日にアイルランド貴族であるダブリン県ラットレルズタウンにおけるアーナム男爵に叙された[2]。アーナムとは13世紀から14世紀にかけてラットレル家が定住したリンカンシャー州アーナムのことであり、サイモン・ラットレルの家系であるラットレルズタウンのラットレル家との関連が連想されるが、2つのラットレル家を関連づける証拠はない[2][1]。
ストックブリッジ
1774年イギリス総選挙でいわゆる「金で動く選挙区」であるストックブリッジ選挙区から出馬して、78票(得票数2位)で息子ジョンとともに当選した[7]。この2議席は大々的な買収によって得たものであり、ラットレル家はその後も10年ほど議席を維持した[7]。
カーハンプトン子爵
娘アンと王族のカンバーランド=ストラサーン公ヘンリー・フレデリックが国王ジョージ3世の許可を得ずに結婚したため、1772年王室結婚法案が提出され、アーナム男爵は法案に反対した[1]。またこの時期にアイルランド貴族院で野党に転じているが、首相ノース卿に伯爵への昇叙を申請した[1]。ノース卿が「アーナム男爵がアイルランド総督に対し、公に野党活動をしている間、王室からのいかなる引き立てにも推薦することが不可能である」と返答すると、アーナム男爵は野党活動をやめ、国王演説をめぐる採決が全会一致で賛成されることに貢献したとノース卿に述べた[1]。ノース卿によれば、アーナム男爵の回答は「あたかもそれが彼に即座に伯爵になる資格を与えているようだ」という[1]。このほか、1774年11月に再びアイルランド陸軍装備総監(muster master general)への就任を申請して、失敗している[1]。
1775年にグレートブリテンでも野党に転じたが、野党の立場での議会演説が『英国議会史』で「あたかも自身が何年も野党活動をしているように内閣を批判している」と形容された[1]。『パブリック・レジャー』誌が1779年に報じたところでは熱心に野党活動をする一方、「自身をいかなる党派にも属しないと公言している」という[1]。
1780年7月にノース卿との交渉に成功し、子爵への昇叙が確約されると、同年9月の総選挙に立候補せずに庶民院議員を退任した[1]。1781年1月9日、アイルランド貴族であるコーク県カースルヘイヴンにおけるカーハンプトン子爵に叙された[2]。カーハンプトンとはサマセット州ダンスターのラットレル家が地所を所有したカーハンプトンのことであるが、やはりラットレルズタウンのラットレル家と関連づける証拠がない[2][1]。
伯爵への昇叙と死去
四男ジェームズが1784年に首相小ピットを支持したこともあり[1][8]、1785年6月23日にアイルランド貴族であるカーハンプトン伯爵に叙された[2]。