ロバート・シャーリー (初代フェラーズ伯爵)
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第4代準男爵サー・ロバート・シャーリーと妻キャサリン(Katherine、ハンフリー・オークオーバーの娘)の三男として、イースト・シーンで生まれ、1650年10月20日にモートレイクで洗礼を受けた[1]。1667年5月3日にオックスフォード大学クライスト・チャーチに入学、1669年7月15日にM.A.の学位を修得した[3]。
1669年3月11日に兄の息子にあたる第6代準男爵サー・ロバート・シャーリーが死去すると、準男爵位を継承した[1]。これにより、両親の男女両系の相続人(heirs general)になり、チャートリーのフェラーズ男爵位への請求権を得た[1]。1677年12月14日、国王チャールズ2世の命令によりフェラーズ男爵位の停止状態が解除され、シャーリーが14代男爵になった[1]。この直前の1677年11月にリッチフィールド選挙区選出庶民院議員リチャード・ダイオットが死去し、補欠選挙でトマス・シンがシャーリーを推薦したが、シャーリーは前述の男爵位を選び、代わりに初代準男爵サー・サミュエル・モーランドを推薦した[4]。
1682年から1685年まで王妃キャサリンの主馬頭を務め、1685年にチャールズ2世が死去した後はキャサリンの家令になり、1705年にキャサリンが死去するまで務めた[1]。キャサリンはチャールズ2世からハイアム・フェラーズの荘園領を与えられており、キャサリンの宮内長官である第2代フェヴァシャム伯爵ルイス・ド・デュラスがキャサリンを代表してハイアム・フェラーズ選挙区で影響力を行使できる立場にあったが、彼は1689年イングランド総選挙以外では候補者の指名に興味を示さず、代わりにフェラーズ男爵が1701年まで選挙区での影響力を行使した[5]。1702年イングランド総選挙で裕福なトマス・ワトソン=ウェントワース閣下が立候補したことでキャサリンの影響力が薄れ、ワトソン=ウェントワースは1703年11月の補欠選挙で議席を得た[5]。
1685年4月23日のジェームズ2世とメアリーの戴冠式、1702年4月23日のアン女王の戴冠式に出席した[1]。
1687年9月から11月までスタッフォードシャー統監を務めた[1]。
1688年の名誉革命でオラニエ公ウィレム(後の国王ウィリアム3世)を支持した[1]。
1699年5月25日に枢密顧問官に任命されたが、トーリー党に属したため、1714年にジョージ1世が即位したときに再任されなかった[1]。
1711年9月3日、グレートブリテン貴族であるフェラーズ伯爵およびスタッフォードシャーにおけるタムワース子爵に叙された[1]。
1717年12月25日にバースで死去、1718年1月13日にストーントン・ハロルドで埋葬された[1]。長男ロバートとその息子ロバートに先立たれたため、次男ワシントンがフェラーズ伯爵位を継承した[1]。一方、女性相続ができるチャートリーのフェラーズ男爵位は長男ロバートの娘エリザベスが継承した[1]。領地は分割相続され、うちアイルランドの領地は2人目の妻との間の息子4人が相続した[1]。
